Last update on Nov.27th,2006



英国滞在記(その4:Paignton 編3)




名物いろいろ

キリギリスを卒業するときかも?

コネタあれこれ

バーバリアンって?

神様はどっちへ向いてるものやら

天変地異

イラクの事件に思うこと

まったくわからなくなりました

人間万事塞翁が馬

信じようと信じまいと

ロンドンに住む...らしい

霧のロンドンから!

さらばペイントン...









2004年8月22日より9月25日まで


学校を一月休みますと書いて、このページもひと月書いていなかった。 PROMSのページのほうにかなりいろいろ書いたから、まったく文化的なひと月だったようにも思われるや もしれない。実際は、体力勝負の大変なひと月だったといえる。 中でもロンドンのホテルで朝起きたとき、はっきりとめまいと熱っぽさを感じ「風邪ひいた!」と思ったとき の焦りは相当なものだった。早速風邪薬を飲んで、必要以上に着込んで汗を出すようにし、その日はペイントン に帰る日だったから列車で眠り、帰ってからも薬をまた飲んで寝た。大学生のころからやっているビタミンC 療法(とはいっても100%グレープフルーツジュースを飲むだけだが)も実施し、腹はたぷたぷだった。 翌朝起きたとき、めまいがかなり減って熱っぽさも薄れていることを感じたときは、神様に感謝した。 なぜなら、その翌日からPROMSラストナイトに向けての大変なスケジュールと、その後両親と妹が英国に 来るのを招待せねばならなかったからである。このスケジュールがまた強行軍だったから、どちらにしても 風邪などひいてはおられなかったわけで、薬の効き目もたいしたものなら、「病は気から」というのもあなが ちウソではなく、気合一発でなおせる可能性もあるもんだとほんとうに喜んだ。 このひと月の中で、パリに2回でかけ、イギリスで1830kmも車を運転し、そしてプロムスもラストナイト を含む16公演を立ち見し、例のパブの公演?も2回こなした。パリもほとんどの移動手段が足と地下鉄であり、 これほど足を多用したことが人生であったことだろうかと、今も我ながらというか、我が足ながらよくやった と驚いている。軽い人間ならまだしも、87kgの体を支えているわけであるから、たいしたものである。 両親と妹をロンドン・ヒースローから送り出してペイントンに帰り、強行スケジュールが終わった直後の体重 をみて驚いた。82kgで体脂肪率が22%を示していたのである。出る前はたしか88kgあったから、 6kgの減量であり、体脂肪率が25%をきったのも初めてのことだ。 ところがこれが夢だったらしい...なんとも馬鹿げた話だが、今計ればちゃんと86.5kgあるし、 体脂肪率も27%ほどある。豚さん卒業できずである。 しかも、そのとき数人に「8kgやせた」とメールを打っているから、計算すらちゃんとできなかったらしい。 つまり、そのくらい疲れていたわけである。ここ2日ほど、明日から始まる学校にそなえて、養生したので、 やっと計算もちゃんとできる状態にもどってきた。 さて、今日はその強行軍から少しずつ小話を抜き出してみようと思う。 これはビートルズのレコードジャケットで有名な、アビイロードの横断歩道である。 もっとうっそうとした道の半ばにあると勝手に思っていたが、道の入口のややこしいところにあった。 写真のとおり、記念写真を撮るひとが絶えないし、みな例のごとくのポーズをつけている。 車の通りが少なくないから、演者も大変だし、撮るほうも車がいなくなるのを見計らうのが難しい。 右側はアビイロードのスタジオで、横断歩道の目の前にある。落書きだらけだったがロンドン在住の方によれば、 この落書きは毎月消されているとのことである。つまり書いても記念に残るのはひと月以内ということだ。 続いてはグリニッジ天文台。いわずと知れた経度0度の場所である。 ロンドンから地下鉄でゾーン2のエリアにあるから、4.3ポンドの一日乗車券を使っていくことができる。 それでも郊外なのと、町並みが保存されてるとのことなので、ロンドンとはちょっと違った感じのよい場所である。 私が行ったとき、12時前だったのだが、子午線上にある時計は11時前を指していた。 わたしはとっさに「これは悪い冗談である」と、またイギリス人のユーモアのせいにしようとした。それにしても 悪い冗談過ぎるなとしばらく考えて思い立った。そう、サマータイムを勘定にいれていないのだ。 そばにいた係員に、「悪い冗談だと思いました。サマータイムが入ってないのですね」といった趣旨のことを言った ら笑っていた。(英語をカタカナ化しようとしましたが、ネタが多いので今回はご容赦を。喋っている言葉には たいした進歩はありません...困ったものです) 他の観光客も私と同じように時計を見比べて首をひねっている。 一番不思議そうにしている男性を見つけて、「サマータイムですよ」と教えてあげたら、手を打って喜んでくれた。 この天文台も無料でみせてもらえる。広い緑豊かな公園の高台にある。 またしても英国の文化がうらやましくなるが、右の写真の店には「子午線から一番目のお店」なんて書いてあって、 どこでも大差の無い事をやっとるわいと納得するわけである。 さて、ここからはユーロスターを使ったパリ・ベルサイユ旅行といこう。 ユーロスターは高い!という評判であるが、インターネットを使って予約すれば、往復で2万円以下で旅ができる。 チェックインも飛行場に行くほどめんどくさくなく、パリ北駅との間を大体2時間半といったところだし、なんと いってもチャネルトンネルを通れるというミーハーな体験ができることから考えれば、面白い選択だと思う。 上はロンドン。ウオータールー駅とロンドン側のチャネルトンネル入口だ。 トンネル内はもちろん真っ暗で、青函トンネルみたいに海底駅があるわけでもないから、トンネル内20分を寝て 過ごしていると、突然明るくなる。フランスにやってきたわけだ。 「フランスに行きたけれど、フランスはあまりに遠し」 なんていったのは永井荷風だったろうか? (後記:萩原朔太郎だそうです。Mさんありがとうございます。2006/11/27) わたしはフランス語を聞くと鳥肌が立つ性分だったので、特に行ってみたいところでもなかったのだが、プロムス の日程と、帰りの電車などの関係から、どうしてもペイントンに帰るよりロンドンに残ったほうが良いという3日 間ができ、それならとばかりにパリへ向かったわけである。 窓から見るフランスはとても広い草原で、もっとごちゃごちゃしたところだろうと勝手に思っていた思いを見事に 訂正させられた。トンネルを出てきたカレー地方には、広大な農村が広がっている。 ホテルはモンパルナスにとっておいた。左側の町並みのなかにある。 写真で見ると情緒たっぷりであるし、たしかに趣のある町並みなのだが、これまた噂に聞くとおりそこ等じゅうに 犬の糞がべちゃっと置いてあった。だいぶ改善されたとは聞いたことがあるように思うけれど、まだまだたくさん 「ある」ようだ。 ホテルそのものはとても感じの良いホテルだった。一泊39ユーロは大割引価格らしい。この後2度目のパリの 時に利用しようとして、同じサービスから検索したが、なんと一泊90ユーロになっており、しかも売り切れて いた。パリの物価については後でしるすことにしよう。 右側は新凱旋門だ。これはいわゆる「凱旋門」よりも遥かにでかく、異様な建物である。パリのラ・デファンスと 言われるオフィス街にどかんと立っている。有料で屋上からの眺めを楽しむこともできる。 ところはいきなり変って、これはベルサイユ宮殿の庭であり、その中で宮殿をバックに写真をとっているカップル の様子だ。雨上がりのひと時、観光客の格好の標的になっていた。 ベルサイユ宮殿そのものは、有名な鏡の間が修理中であったことや、後でわかったことだが知らずにちょっとマニ アックな見学コースに入ってしまったこともあって、「こんなもんかいな」という感想しかなかった。 しかし、たしかにこの広大な庭園には圧倒された。 右の人たちは何をしているのかといえば、トイレ待ちである。 ベルサイユ宮殿といえば、トイレが無かったことでも知られている。 「現代においても大変なんやね」と、通り過ぎてから建物をとるふりをして、実はこれを撮影していた。 ワシも悪よのぅ...ふぉっふぉっふぉっ ちゅうか、悪趣味なだけですね。 ベルサイユに行くには、郊外電車を利用するなど少々ややこしい交通手段が必要になる。 あらかじめガイドブックで調べておいた駅名を手帳に書き、出発駅と記してあるモンパルナスの郊外電車の駅の 切符売り場にいってそれを示すと、「一階下の売り場に行って」みたいなことをいわれたので、行ってまた同じ 事を繰り返すと、2.6ユーロの切符を往復で2枚くれた。 ちなみにパリの地下鉄では、「あんてぃけかるねしるぶぷれ」というと、10枚綴りの回数券を10.5ユーロ で手に入れることができ、入るときに自動改札を通れば、あとは切符を改札されることなく出口を出られる。 料金は高速地下鉄以外同じ料金であるし、乗車口が分かれているので迷うことはない。 しかし、郊外電車は出るときも改札が必要だから、乗車後もチケットを持っていなければならない。 一時が万事初めてのことなので、楽しさ半分不安半分、おもしろい「旅行」だった。 モンパルナスから各駅停車で30分、ベルサイユから直通の快速みたいのなら15分ほどの場所である。 右の写真は、その電車からとったパリであるが、小さく気球が写っている。 パリの街に飛ぶ気球。モンゴルフェ兄弟を連想させて、少々歴史を感じる瞬間でもあった。 これは帰りがけの写真だが、行きがけは光のさす中、雨が降っていて、パリの街にかぶさるように幻想的な虹が かかっていた。この丘から見えるパリ自体があまり長い間見えるものではなく、写真を撮ることはできなかった が、印象派のような世界だったことは間違いない。 左はブローニュの森の入口。ちょっとだけ歩いてみた。 パリのはずれといっても、入り込んでしまえば、完全な森である。 ここから歩いてしばらくのところに凱旋門があるのだから、ちょっと信じられないような街の配置ともいえる。 わたしの3日間唯一の暖かいご飯だったシャンゼリゼのマクドナルド。 飯を食うにもよくわからないので、スーパーでパンを買って2泊3日を過ごした。 そして、シャンゼリゼといえばマロニエ並木である。 このときは栗のような実はまだ目立たなかったが、3週間後には見事な実をまとっていた。 いわずと知れたルーブル美術館とモナリザの付近である。 どこの人もミーハーというか、モナリザだけに殺到するのは日本人だけじゃないし、写真を撮るのも日本人だけ じゃない。最近思うのは、みんな日本人はカメラをぶら下げて写真を撮ってるなどと皮肉られるのは、実は、 日本人がみなカメラを持っていることがうらやましかっただけなのだということだ。デジカメが普及し、みな 持つようになると、どこの人も写真をとるのは大好きなのである。 モナリザの写真を撮って何が面白いものかとわたしは思う。むしろ、このようにモナリザに群がる人を撮る方が 何倍も楽しい。 さて、絵のほうだが、ロンドンのナショナルギャラリーで気に入ってしまったラファエロの別の絵があったことが とてもうれしかった。モナリザの手前数十メートルのところにある、ほとんど誰も立ち止まらない絵の前で、 わたしはボーっとラファエロの聖母を眺める事ができたのである。 絵なんてほんとまったくわからないが、ラファエロだけは凄いと思うようになった。 イタリアにはまだまだ沢山あるらしいから、訪ねるときはちゃんと調べていく事にしよう。 ノートルダム寺院とその入口にある「よこそう」の看板だ。 誰も指摘しないのか、指摘しても直すつもりはないのか、宝島社のVOWネタにはもってこいのミスだ。 もうおそらくVOWには掲載されていると思うが確認のしようはない。 また、わたしも喜んで写真はとったが、間違ってますよとは誰にも言わなかった。 ところで、このノートルダム寺院のあるシテ島で500mlのジュースを買おうとすると、いくらとられるか 想像できますか? なんと、3ユーロであるから約450円といったところである。どの店にいっても同じだった。 ホテルの前の八百屋のようなところでは1.5ユーロ取られた。(この店は2リットルでも2.2ユーロだった) シテ島から出てしばらくのところで買った500mlのコーラは2ユーロだった。これは、3ユーロなら断じて 買わないと決めて、渇く喉を引きずった結果である。駅の売店も2ユーロ。 ホテルの近くにみつけたスーパーでは、なんと4本で2.5ユーロ。おいおいそんなんアリでっか?? 同じものとは信じられない値段の違い。 ロンドンでもここまではいかない凄さである。 欲しい人がありそうなところでは、できるだけ高く売りつけようというわけだが、それにしても凄い。 この後2回目のパリで、ロンドンに帰る直前のパリ北駅にてとても喉が渇いたので、チェックイン後のラウンジ内 の売店で同じスプライトを買ったら、これがなんと3.3ユーロ!このときはシテ島のとき以上に渇いていたので、 ついにその高級なスプライトを買ってしまった。 美味いを越して、金の粉でも入っていることを想像しながら飲み、あまりにもったいないのでロンドンまでもって いって最後をすすったが、もちろん気が抜けてまずくなっていた。 みなさま、パリの価格にはご用心あれ! これらもシテ島にある。 左側は、マリー・アントワネットが処刑までの間とらわれていた、コンシェルジュリであり、右はサント・シャベル 教会の美しいステンドグラスだ。ステンドグラスは逆光になるので写真にはいつも不向きである。 この教会に入るには荷物検査があったりして、行列ができるのが一般だという。1度目は夕方に行ったからか、 並ぶことなくはいることができたが、2度目は朝だったからか30分ほども並ぶ事になった。 これはオルセー美術館。印象派の絵が多く展示されている。 美術館そのものが、もともと駅舎だったとのことで、それらしい風格を漂わせている。 ただ、印象派の展示階はとても部屋割りが複雑で、この人が見たい!という場合に混乱しやすい。 疲れた足にはとてもつらい美術館だった。 これは、ナポレオンの棺とそれを納めているアンヴァリッドと呼ばれる建物だ。 ナポレオンはやはりフランスの英雄なのである。 上は凱旋門の屋上から眺めた夜のパリと、その階段である。 この日、多くの有名な場所を歩いてめぐったのだが、入場料のほうはどうだったかといえば、非常に便利なパスが 発行されているのでそれを利用した。「カルトミュゼ・モニュマン」とよばれ、1日、3日、5日のパスが、それ ぞれ18,36,54ユーロだ。わたしは、1日のを買って見てまわったのである。 もちろん、エッフェル塔や新凱旋門をはじめ、そのパスでは入れないものも多いが、ルーブル、オルセー、そして ナポレオンの棺、わたしは別の日に行ったので適用されなかったもののベルサイユ宮殿にいたるまで、そのパスで 入場することができる。なにしろ、入場券を買うための行列に参加しなくても良いのが素晴らしい。 このパスは主要駅の切符売り場でも手に入るから、回数券を買うときに手に入れておけばよい。パスに使いはじめ の日付と名前を書き込んだら、使用開始できる。その面を格建物の入口で表示すればOKだ。 この日の夜も散々歩き回った挙句、ホテルに帰ってきてから凱旋門がそのパスの対象に入っていることに気がつい て、せっかくだからとしばらく休んだ後に出かけたのである。痛む足を引きずって屋上まで登ったら、そこには 美しい風景が広がっていた。直前までしとしと降っていた雨がほとんどあがり、きらきらと光る路面が一層綺麗で 足の疲れを忘れさせてくれたのである。 ちなみに大阪人らしく勘定をつけるとすれば、この凱旋門に登るだけで7ユーロ。パスのほぼ半分が飛ぶことにな るのだから、いかにお得なパスであるかお分かりいただけると思う。 さて、パリ編の最後はエッフェル塔だ。ここにはパスでは通れないが、夜のなんと11時まで最高部の第三展望台 までいけるばかりか、そこは露天なのである。そこから眺めるパリの街は、なにやら神様にでもなった気分だ。 また、この季節だけかどうか知らないが、9時や10時といった正時から10分間、エッフェル塔は全体がフラッ シュで光り輝くのだ。この光景は、シャイヨ宮とよばれる建物から見るのが素晴らしかった。といっても、そこしか 知らないのであるが。 この事はガイドにも全然書いていなかったので、キラキラと光り輝くエッフェル塔を見たときには本当に感激した。 実は、ホテルを出るまえ、雨が降っていた。しかし、先も書いたとおりの「パスが使える凱旋門」と、「パリに来て エッフェル塔に行かないなんて」というミーハーな根性が疲れに勝ち、雨を突いて出てきたのである。 もしあそこで、疲れたとかいって寝ていたら、この本当にすばらしいアトラクションを見ることはできなかった。 いつも書くように、「オポチュニティ(機会)」というのは大切にしないといけないと、ここでも痛感したのである。 しかも右の写真は、展望台から眺めていたら月が綺麗に顔をだして、写真ではとても表せないこれまた絶景を生みだ してくれた。本当に幸運だったと、またしても感謝感激しながら、展望台を降りていった。 「フランスもなかなかやりよる!」 なんども光るエッフェル塔を振り返りながら、夜の11時を廻った地下鉄の駅にもぐりこんだ。 フランス編はこれにて終了である。 さて、ここはちょっとピンボケだが、お馴染みの私が水曜日に歌うパブ、チャールストン・コートと、その隣にある アガサ・クリスティーが通ったといわれる教会である。この日は鐘楼の鐘をつく練習をしていたので、教会の扉が開い ており、中を見ることができた。この教会のステンドグラスの一部はアガサ・クリスティーが寄付したもので、青を 基調とした美しいものだ。お祈りをちょっとだけして、退散する。 ロンドンのPROMSにて、いろんな人々とお話ししたなかで、わたしがペイントンに住んでいて、チャールストン・ コートで歌っているという話をしたら、なんと「行った事がある」という人もいた。 いまさらながら、相当有名なパブらしい。 さて、この次に訪れた日のこと。 ピアノを弾いてくださるパムが、旦那さんの病気の看護のためにパブにこれなくなった。 私たちは学校のツアーで毎回訪れているので、事前には知らされていない。しかし、わたしは前に旦那さんの具合が あまり良くないというのを聞いていたから、いつかそんな事もあるかなとは思っていた。 おかしなことに、この日はちょうど先に書いた「めまいがした日」の翌日で、朝から寝床に臥せっていたが、夕方に なってパブにでかけようとしたら、いつも簡単に見つかるはずの家のかぎが、どこを探してもみあたらない。 このとき「あ、パムは今日はこないんじゃないかな」と、いわゆる虫の知らせのようなものを感じていた。 走ってゆけば間に合うぎりぎりに見つかって、まだ熱っぽさの残る体に鞭打って学校に駆けつけ、ミニバスにのった。 パブに入っていくと、やはりみんなの歌声がしない。やっぱり思っていたとおりの状況になっていたのだ。 ドライバーのディビッドが私に言う。 「おまえ、ピアノ弾けたよな。ん?」 ピアノの演奏があると銘打ってツアーを企画している以上、ディビッドにとって緊急事態であることは間違いない。 もちろん彼のせいではないにしろ、彼はマジメな性格なのである。 どうしようもないほど下手糞な「この道」を一度披露したことはあるが、とても弾けるとは言えないピアノ。練習も この半年以上していないし、一時帰国の時に家でちょっとひいた時、こりゃもうアカンなとおもったくらいだ。 しかし、いつも歌のために持っている楽譜のいくつかと、歌集にはギターコードが振られている。 今日はパムのことを事前にしっていたのか、常連さんはほとんど来ていない。 前に書いた「ラビアンローズはお前の歌だろ」と言いにきてくれたピーターさんと、いつも「メモリー」を綺麗に 歌うおばさんくらいが知っている人である。 この人たちにピアノの事を聞いたが、「人前では弾けない」なんて答え。 ここは一つディビッドの顔を立てるためにも、やっちゃるかと思ってピアノの前に恐る恐る座る。 譜面立てが見つからないので、ピーターさんと探し回る。ピーターさんが、アップライトピアノの上の蓋を開けると、 なんと中から出てきた。ふるいピアノ恐るべしというところか。 映画音楽の歌集をコードを頼りにガチャガチャ弾き始める。間違ってばかりで、そのたび苦笑を振りまき、一曲終わる と「OK?」なんて調子のとんでもない演奏会が始まった。とりあえず拍手ももらう。 「手が震えてしょうがありません!」 なんて、手を震わせて冗談を言ったものの、手の震えはかなりの意味で本物だった。 ピーターさんが持っている楽譜にもコードが振られている。CだのDmだの簡単なコードの歌集だったので、ピーター さんのリクエストには応えることができた。その中に「メモリー」も入っていたから、おばさんも歌う事ができた。 お客さんから「イエスタディ」のリクエストがかかって、歌集にあったのだが、これが高いキー。わたしには転調奏法 ができないから、「ごめんね」といいながらそのまま弾く。さて、こうなったら肝が据わってきた。 相変わらず間違えまくるのは仕方ない。ピーターさんは横で歌いながら、ニヤリと笑って「ホームパーティみたいだ」 と私に言う。この一言は本当にうれしかった。ピーターさんがOKなら、みんなOKだろう。 この前弾いた「この道」なんかもまぜつつ、「ムーンリバー」「シェーン」などの映画音楽やアマポーラなどを弾いて いると、バーから声がかかった。「11時です。おしまいの時間ですよ!」 なんと、9時半に来てから1時間半もやっていたのだ。 我ながらとんでもないことをやったものである。 常連さんではない知らないおじさんから、ギネスをおごってももらったので飲み干し、「今週プロムスのラストナイト で歌う歌を練習しても良いですか?」と断ってOKをもらってから、伴奏なしにピーターさんと二人で、「希望と栄光 の国」を歌い、この恐るべき夜は終わった。 みんなとお別れの挨拶をしていると、ディビッドが近寄ってきて、「ありがと。ワシを助けてくれたな」と言った。 パムの復帰を祈りつつ、譜面台をきちんとピアノの中に納めた。 それにしてもこの英国滞在、ほんとうにいろんな事を経験させてもらっている。 あの時鍵が出てこなかったのは、なんのまじないだったのだろう? パブに行ったら、大変な目にあうよという事だったのだろうか? でも、個人的には酔いも手伝って、それなりに楽しかった。 もしかしたら、拍手はしてくれたものの、多くお客さんにはとんでもないものを聞かされたと思っているのだろうか? たしかにあれなら、古いパブで静かに飲んでいるほうが良いという人も多かっただろう... ま、えっか!済んでしまったことはしょうがないし、ディビッドとピーターさんは間違いなく喜んでたから... それしにても、縁起かつぎも楽じゃないわ! さて、この日はチャールストン・コートに行く前に立ち寄ったパブで、東ドイツ出身の初老の男性(同じ学校の生徒で すが、名前すら聞きそびれました)に、壁崩壊前と現在について語ってもらった。この件はまたいずれ書こうと思う。 とても興味深い話だったので、鍵の一件は「わたしにパブにいってはいけない」という縁起ではなかったことは間違い ないだろう。と、いうことは...やめとこ。 話題は変って悪戯の話である。 英国でよく見かける看板である。「貸します」という按配のものなのだが、わたしにはどうも真ん中にIが入ったほうが しっくりきてしまうのだ。ためしに、画像を加工してみると右のようになる。 「オフィース・トイレット」 以前授業のあとで、先生にこの話をして、「私がもし子供だったら(仮定法の授業でした)、Iを書き込む」などと 言ったら先生(男性)大笑い。「そりゃ、気がつかなかった。一度も見たことないよ!」といった後で、ジロりとにら んで、「するなよ!」といった。やるかいな! その一件のあと、一度ロンドンの路上でこの悪戯をついに見かけたが、あまりポピュラーじゃないというのも不思議な 話だ。「TO LET」の言葉の周りには、トイレにふさわしいような美辞麗句が一杯書いてあるから、もっとこの悪戯 があってもよさそうなもんだと今でも思っている。 さて、続いてはロンドンに戻って、テームズ川に浮かぶHMSベルファスト号である。 この船は、軽巡洋艦と呼ばれるクラスの軍艦で、第二次大戦の生き残りである。 戦争博物館の一部として、しかしこちらは有料で公開されているのだが、これは本当に見ものだ。 ガイドブックなどは、女性の視点で編集されていることが多いように思う。こういった男の子の遊びにはあまり文字数が 割かれていないかあるいはまったく載っていない。しかし、ロンドンの戦争博物館といい、この船といい、実際に戦争で 使われた兵器を目の当たりにすることができる機会は、現在ではほんとうに少なくなっているのだ。 この船の場合、ボイラー・エンジンから、弾薬庫、海兵の居住区、そしてお仕置き部屋!にいたるまで公開されており、 実際の航海時の雰囲気を感じることができる。 また、40mm機関砲に関しては、実際にハンドルを回して砲を上下させる事ができるなど、ちょっと考えられない程の 「公開」ぶりだ。想像力のあるひとなら、こういう機械に乗って大海原を航海し、敵と砲弾を撃ち合うという事態を考え れたり、その魚雷や砲弾の迫力を見て、いかに戦争というものが恐ろしく、そして費用のかかるものだということを知る ことができるだろう。これは決して自分が戦争について興味を持っていることに対する姑息な逃げ口上の類ではなく、 わたしは日本でもどんどんこういった「戦争を肌で感じることのできる」展示を増やし、その馬鹿馬鹿しさを勉強せねば ならないと真剣に考えているのである。コンピュータ画面の前に広がる非現実的な世界や、記録といっても映像をいくら 体験したり見せられたりしても、そういうものに慣れている現代人には何の効果も生まない。 やはり、現実に兵器を見ることで、その恐ろしさが伝わってくるのである。 戦争博物館に展示されているドイツの「ヤークト・パンサー」戦車は、鋼鉄のボディーを割いて内部が見れるようになっ ているが、その側壁鉄板の厚い事、そして内部の狭いことに驚かされる。あの中に数人が入って走り回るなど、考えた だけでもゾッとする世界だ。わたしは子供のころからこの「ヤークト・パンサー」が一番のお気に入り戦車であり、実物 を見た時はまず興奮に震えたが、冷静に戦車を見るうち、子供のころの「お気に入り」はそのままに、しかし、戦争という ものに対する恐ろしさがふつふつと沸いてきた。 戦争の事は、もっと多くの人が勉強しないといけないと私は思っている。 さて次は、スコットランドから中部イングランドにかけての旅からピックアップしておこう。 まず初めは、ヨーク。イングランド北中部に位置する古い町である。 写真に見える石の道は城壁であり、中世の町がまさにこの中に納まっている。 ぐるっとほぼ城壁の上を一周することができる。時間も2時間もあれば大丈夫だと思う。 町並みの美しさと、そびえたつ大聖堂「ヨークミンスター」の荘厳さとが見事にマッチして、中世の趣を感じさせてくれ る場所である。わたしが訪れた日は日曜日だったので、週末の「ヨークシャープディングとローストビーフ」を本場で 味わう事ができたのもありがたかった。 また、この町には、ある分野では英国最大の博物館がある。 鉄道博物館だ。 この中で、日本の新幹線が大変優秀なものとして、かなり多くのスペースと展示をもって紹介されている。 また、右側は蒸気機関車世界最高速記録を持つマラード号の本物だ。その他、有名なスチーブンソンのロケット号や、 多くの鉄道模型、そして、蒸気機関車の動作原理について本物を分解しての展示など、鉄道発祥の地に遜色ない内容と なっている。ここももちろん?無料である。 ヨークからまた鉄道で2時間ちょっとのところにエジンバラがある。ここはスコットランドだ。 ここで日本から来た両親そして妹と合流し、レンタカーを借りての旅となった。 エジンバラ城は、丘の上にそびえたつ雄大な城である。 イングランドとの激しい戦闘の後、スコットランドは連合王国としてグレートブリテンの一部となった。 今でも一つの国としての自治機能を幾つか残し、イングランドとは違った行政も行っているらしい。 見かけ上特に大きく違うところは家の色である。イングランドの家が赤系の色が多いのに対し、ここエジンバラの 家はみな灰色系だ。おそらく使っている石の材質によるものと思う。 エジンバラを後にして北上する。今度は全英オープンで有名なリンクスコースをちょっと載せておこう。 セントアンドリュース・オールドコース。ゴルフの聖地とも言えるこのコースは、一見すると簡単そうなコースに見えた。 エジンバラから車で1時間半ほどのところにある。 基本的にはパブリックコースらしいが、豪華なクラブハウスは会員制とのことだった。 いつかプレーしてみたいものだ。 隣接してゴルフ博物館などもあるが、先を急ぐ旅だったので立ち寄らなかった。 そして、ここから北にしばらくの場所に、全英オープンのファンの方ならお馴染みの、カーヌステーがある。 わたしの両親が、どうしてもマッカイというマーマレード工場に行きたいと言う。なんでもスコットランドを電車で行く テレビ紀行番組に「世界で初めてマーマレードを作った」として紹介されたらしい。妹が苦労して現地の人から場所を 聞き出したところ、そこがカーヌステー。 工場にお邪魔し、突然の訪問だったにもかかわらず大変な歓迎をしていただいた。丁度終業時間ごろだったこともあって だろうか、営業部長の方に「ゴルフコースには行ったか?」と聞かれたので「行ってないが、行って見たい」というと、 「あそこは近いがとてもわかりにくいから教えてあげよう」といって、私たちのレンタカーに乗って案内までしていた だいたのである。 たしかに判りにくい道を抜け、信号のない危険な交差点を横切ると、コースが見えてくる。 車を止めてクラブハウスらしい建物に向けて歩いていると、一本のクリーク(溝)が見えてきた。 「あれがクラブハウスで、世界で一番大きなロレックスの時計が付いてます。それから、ここが18番グリーン...」 なんと今、目の前にある溝が、あのジャン・バンデベルデが優勝できなかった悲劇の「あの溝」なのだった。 営業部長さんは、もちろんというかなんというか、目の前でその光景を見ていたという。 1999年の全英オープン最終日の最終18番ホール。フランスのジャン・バンデベルデは2位に3打差のトップだった。 「何番で打ったか知らないが、あそこの茂みに打ち込んでね。それからこの溝に落としたんだよ」 そりゃ、生で見ていれば、あの時バンデベルデがドライバーを選択して大失敗したなんてことは知らないかもしれない。 (この文章を書く際に調べてみると、正確にはドライバーで曲げたあとの第2打を茂みに打ち込み、その後小川に落とした  ようです。たった5年前でも忘れてますねぇ。夜中にテレビみてましたが。) 靴を脱ぎソックスを脱いで、溝に落ちたボールを打とうとしたバンデベルデ。 営業部長さんとでなかったら、靴下を脱いで溝におりて写真の一つでもとっていたところだろう。 あの溝では、どう考えたって打てっこないと思ったが、営業部長さん曰く「潮の満ち干で深さがかわるんだよ」とのこと。 そして営業部長さんはコースから帰り際に、 「今度2007年にまたカーヌステーで全英オープンが開かれるから、思い出してね」 とおっしゃった。とても気さくな良い方だった。 ともかく、今回の旅行で、セントアンドリュースにはもともと行くつもりではいたが、心の中でどうしても忘れられなかっ たカーヌステーに、なんと自動的に導いてもらったという事には本当に驚きを感じざるを得ない。 そして、マッカイの営業部長さんにも本当に感謝したく思う。ありがとうございました。 続いてはネス湖である。 天気が良かったからか、なにやらあっけらかんとした湖だった。 もうちょっと、摩周湖のように神秘的なところかと思っていたので少々肩透かしといった感じだ。 水にさわってみたが、特に変った様子もない。 ネッシー 私は存在していて欲しいと願っている。 そして、ちょっとだけスコットランドの風景など。 本日の更新の最後は、ハワースというヨークに程近い村。 嵐が丘、ジェーンエアなどで有名なブロンテ姉妹の住んだ家が博物館として残っている。 わたしは映画も見てないし、小説も読んではいないが、名前くらいは知っていた。 以下は博物館にて辞書をひき引き知りえた事と、あとはネットを検索して補充したことなどである。 この姉妹、みな短命で長女シャーロットが38歳で亡くなるのがなんと最長命。原因はシャーロット以外は結核。 (と、博物館の説明には書いてあったが、ネットでは喘息と書いているものもある) シャーロットについては、博物館には単語が記されていたが、わたしの辞書には訳の記載が無かった。 (両方ともその場で調べてそれっきりなので、もはや何とかいてあったかわからない) かわいそうな事に、彼女は結婚数ヶ月目。しかもおなかに子供がいることがわかり、子供用品などを準備し始めてからの死 だった。その子供用の帽子が博物館に残されているのも悲しい。 「ねえ、あたしは死なないわよね?あたしたちは離されやしない、あんなに幸せだったんですもの。」 と夫に向かっていった言葉が最後の言葉とされているが、本当に悲劇小説のような最後だったのだろう。 この寒々しい雰囲気の村、そして草原を見ていると、なにやらそれが宿命だったかのようにも思えてくる。 彼女らの母親も末娘のアン・ブロンテを生んだ直後に亡くなっているようだが、この人は私にはお馴染みのコーンウォール はペンザンスの出身とあった。田舎から田舎にやってきたとは言え、南の気候から変って、北のもっと厳しい気候の土地で の生活は厳しいものだったに違いない。 どうしてこの地方にやってきたのかなどは、展示をちゃんと読んでもおらず、よくわからない。 しかし、結婚というものはなんとも難しいもんだと、独身の身だから考えるような事を思いながら博物館と村を後にした。 さて、この後も家族と共での旅行は続き、先述のとおりレンタカーで合計1830kmほど走り、ペイントンで蒸気機関車に 乗り、エクセターで車を返した後ロンドンに列車で向かい、ロンドン見物後今度はパリに2泊3日。ロンドンに帰って一泊後、 両親と妹をロンドン・ヒースロー空港で見送ってから、また列車に揺られ、我が家に帰り着いた。 このひと月の日程もどえらいものだったが、今回の更新、明日から学校というのに、まる半日も費やしてしまった。 疲れた... しかしもし最後までお付き合いいただけた方がいらっしゃるなら、心から感謝申し上げたい。 ありがとうございました。紅茶でも一杯飲まれたほうがよろしいかと思います。 さて、また面白いネタがあれば書いていきますので、これからもよろしくお願いいたします。 後記:車の走行距離を前回更新時2300kmとしていましたが、これも体重と同じオオボケで実際は1830kmでした。    すでに文中では訂正更新しております。    それにしてもここまでボケていたというのは、よほど疲れていたのだろうとしか言い様がありません。    82.2kgの体重も22%の体脂肪率も2300kmの走行距離も、一体なにを基本に「見ていた」のでしょうか?    わたしは異次元に一瞬迷い込んでいたのではとまで感じております。


2004年9月26日より10月1日まで


この数日というもの、時間が飛び去ってしまったように思える。 あと1月で、ペイントンを離れる事になってしまった。 学校に復帰して、先生と前からいる数人の生徒以外知らない人ばかりのなか、とりあえず楽しく授業を受けて家に帰ってきた。 殆ど同時に電話のベルがなったので、何事かと思う。通常私のうちに電話をかけてくる人などいないのである。 出てみると、外人さんだ。 困った事に、以前ほどでは無いにしろ英語を電話で話すのはめちゃくちゃ苦手なのである。 電話先の彼女がこのフラット(アパートの部屋のことです)を借りている不動産屋の人であることと、彼女が何かの検査に来る ということはわかったのだが、あとがよくわからない。おそらく、今月末の契約更新について言っているのだろうと思ったので、 「ワタチエイゴヨクワカラナイデチュ。ケイヤクノコトハ、アトデめーるシマチュ」 といったら、「OK!バーイ」とかいって、電話が切れた。ほっとする。 ところが夕方にもう一度かかってきて、今度は「検査の日付を指定したい。水曜はどう?」なんていうから、「ゴゴニシテ!」 といったら、「じゃ、2時にいきます」といって電話が切れた。 メールすぐにしなかったから、またかけたのかなと思って、「賃貸契約をひとまず月ぎめから週に換えてもらえませんか?あと 数週間は少なくとも滞在したいので。まだいつ出るかは決めてません」という旨のメールを出しておいた。 火曜が過ぎ、水曜日。例のごとくパブに歌いに出かける日であるが、この日は「検査」なるものもある。 朝からあまり良いことが無い。いつもの踏み切りではその時間にしてはめずらしく遮断機が下りてくるし、学校でも今ひとつ ノリが悪くて気分が良くなかった。 家に帰ってきてメールを開く。なにも着ていなかったが、念のためにネットスケープのメールが自動仕分けしてくれるジャンク メールのホルダーを覗くと、不動産屋からのメールがきていた。 「水曜2時に行きます。ところで延長の件ですが、家主さんが使うとの事なので、申し訳ありませんが延長はできません。  同じ建物のほかの部屋を使いたいですか?」 なんじゃそりゃ!延長できんというのはこんな簡単に言えるもんなんかいな! 2時までしばらく時間があったので、契約書をひっぱりだして眺めたが、そこには延長に関する項目はなにもない。 おそらく法律では規定されているとおもう。日本でもこんなに簡単には延長を断ることはできないはずだし、そういう場合は かなり前の事前通告が必要なはずである。 あたらしい業務担当だという女性がやってきて、検査を始めた。 冷蔵庫がちょっと汚れているといわれた以外は、おおむね良好とのことである。 なにしろ靴で生活していないので、カーペットは綺麗だし、ガスオーブンなんて一度も使っていない。 両親が旅行のついでに来るといっていたから、ちょっとばかり掃除していたのも役立った。 彼女がいった。「メール見ました?」 そこで私は、「ミタ、アル。トテモシツボウシタアルヨ。ダレモソンナコトイッテナカッタカラ。」と、単刀直入にいった。 彼女は「実はわたしもちょっと前に聞いたのよ」なんていう。どうも家主が突然言ってきたらしい。 彼女はさすがに悪いとおもったのか、「いつまで居たいの?家主は11月1日から使いたいといってるけど」といったので、 カレンダーを確認すると、その日は月曜日であり、最後の土日には学校の課外活動が入っているから、とても厳しい。 「11月3日まで少なくとも居たい。その週の最後までならとてもありがたい。ただ、この部屋を借りている大きなポイント は、電話線が使えることだから、他の部屋にはいきたくない」と言った。もちろん、突然ちゃんと英語が上手くなったのでは なく、カタカナだと読みにくそうなので止めただけである。 彼女は「家主に電話してみる」といってくれた。そこでわたしも、「これはわたしにとって良いことかもしれない。実は、スケ ジュールをきめかねてたから。これは神様が決めてくれたことだと思ってる。」といっておいた。彼女はちょっと笑って、 帰っていったから、11月3日くらいの線はなんとかしてくれるのではないか... しかし...ペイントンを離れる事が現実問題として持ち上がってきた。 今までなら、住み易く、デクラン親父、デイビッド、パブの方々をはじめ知り合いも多いこの町に、「もうしばらくいる」と いうアイデアも漫然とではあるが存在していた。でも、このフラットを出るとなれば、ほかの方法を考えてまで滞在すると いう案はないだろう。神様が「そろそろ離れたなさい」とおっしゃってる以外考えられないような話でもある。 いままでは、11月をヨーロッパ大陸で過ごすというアイデアを、これまた漫然と考えてきた。 しかし、現実問題になってくると、今ある荷物をどのように処理するかなど、問題は山積みだ。 この後日本に帰るのも、どのようにするか決めていない。 来年初に40歳を迎える身としては、もうすこしちゃんと計画を立てておかないと、先が思いやられる。 この10月は、それをそれこそかなり必死に考えねばならなくなった。9月中に強く認識できたというのも、これまたありがた い話である。 さて、今日学校にいって、朝の初めの会話で「ダイスケは?」なんて話題をふられたので、「実はペイントンを離れることが 決まりました。理由はこれこれで...11月にヨーロッパを旅するというのは、あまり良い季節じゃないし、どうしようかと 思ってます」なんていうと、今教えてもらっているアン先生が「みなさんがダイスケならどうしますか?」と他の生徒に聞く。 「ニュージーランドにいくね。夏になるから。」 「スペインに行って冬を過ごしてから、また英国に帰ってくればよい」 などと、実はわたしも考えていたアイデアをいってくれる。 そこでわたしが「実はわたしはあんまり若くなくて39歳なんで、仕事を探すのが大変だからそれもかんがえないと」なんて いったらこれが盛り上がった。 「39!なんて歳が行ってるんでしょう!」 これがいままでのパターンなら、「若く見えた」という話なのだが、今日は雰囲気が違う。「まだ若いやんけ!」というノリ なのだ。ここを間違えば、話題についていけないくて面白くない思いをするところである。 それを初めにいったのはドイツ人の芸術家のおばちゃんで、おそらく40台後半。そしてアン先生。彼女は同年代とみた。 そこで、これまたおそらく同年代かちょっと若いドイツ人のウルリヒが、「僕なら職を探すね」と、マジメな顔をして言う。 そこからまた喧々諤々の議論があって、「ダイスケは英国で日本語教師になればよい」という結論が出た。 う〜む、それは考えた事がなかった。 前から、教師になるというのは自分の最終目標であるし、日本の中高の社会科の教員免許は持っているし、1年ほど短大の 非常勤講師をしたこともある。しかし、日本語の教員というのは、あたまの片隅にはあっても具体化するために前面に持って きたことのないアイデアである。 でも、これまた何かの縁だろうと、家に帰ってからネットを検索して、ロンドンで授業をやっている学校を見つけたので、 案内を請求することにした。期間は一年のものがやりがいがありそうだ。 このほかにも、当初の目的であったアロマテラピー関連の学校にも資料請求をだしておいたが、英語がちゃんとできることが 大前提になっているものが多く、これはまだむつかしそうである。 何にしても、英語はまだまださっぱりといってよいほどのものだし、このまま帰国したのではあまりにも寂しい。 ヨーロッパ旅行はもうちょっと良いシーズンになるまでおあずけにして、英国に滞在することを前提でのスケジュール作成を はじめることになりそうだ。 ペイントンを離れることに決めた水曜日の夜。チャールストン・コートにでかけた。 「もしかしたら?」と思っていたのだが、わたしが入って来たのを見つけた常連さん達が、「テレビスターのおでましだ!」 と手を叩いて迎えてくれた。もちろん、PROMSラストナイトの中継に、わたしが映っているのを見ていたのである。 「ごめんなさい、あんな服を着ていったのは大失敗でした」 などと謝っておく。ほんと、ビデオでみた自分の姿は、周りの人が決めているから余計に酷かった。 この楽しいパブで歌うのも、あと数回だろう。 何と言ってお別れしようかと考え始めると、とても寂しくなってしまった。 このひと月、またいろいろなことがありそうである。 (次回は、東ドイツのお話、ロンドンでの散髪の話、ドイツ人の縁起かつぎの話など、コネタ系?を書いておこうと思います)


2004年10月2日より10月7日まで


本日はコネタと言ってもかなりコ難しい話題が多いのをお許しいただきたい。 毎日学校に行って、いろんな人種の人とカタコトの英語で話しをする。 前も書いたが、今の学校の場合2〜4週間が基本の勉強期間なので、クラスメートがどんどん入れ替わる。 友達を作るには短すぎる期間だし、最近は来た当初よりも人付き合いが薄くなっているから、金曜日が来ると学校で握手をして サヨナラでおしまいというパターンが多くなった。何人かの人とたまにメールのやり取りをしてるくらいである。 かといって、たまに話す内容には、なかなか興味深いものが多い。 最近、旧東ドイツ圏から来た3人の、少々歳の行った人たちと別々に話をする機会があった。 最後の4週間になるので、またデクラン親父のイングリッシュ・カルチャーコースを履修していることもあって、学校の仲間と パブに出かける機会が多くなったからである。 例のごとく、今と昔とどっちが暮らしやすいかというのを聞くのだが... 年配の人がいうこと。それは、「西側のプロパガンダ」である。 彼らはもちろん「東側のプロパガンダ」について良く理解しており、社会主義のよさを主張し西側の問題点を語るテレビ番組 「黒のチャンネル」をやっていたシュニッツラーの話を持ち出すと、「彼がテレビに出てきたら、チャンネルを変えたもんだよ」 なんて言う。「シュニッツラーはもともと西側の人間だったのに、なぜあんな事をやってたのかわからん」とも言っていた。 しかし、彼らは「西側もおなじようなことをやっていた」ことがとても意外だったという。 印象に残った発言を並べてみようと思う。 「我々は、東ドイツ時代に、決して困窮していたわけじゃない。むしろ、先のことを何も心配せず生活できたんだ」 「自分の伯母が西ドイツにいてね。自分の彼女とかは一緒に行けなかったんだが、自分自身はよく西ドイツにいったもんだ」 「伯母は大変なお金持ちで、アルプスにバンガローを持ってたけど、年に3回くらいしか行けないといってた。  自分の場合は、冬になると週末はいつも近くのスキー場でスキー三昧できたんだよ。伯母がうらやましがってたね!」 「自分は、スキーを競技でやってたから良い道具が欲しかったんだが、東ドイツではそういうものが手に入らない。だから、  ハンガリーに行って密輸するんだ。車のシャーシーに結び付けてね。国境を越えるときは、ほんとうに怖かったよ」 「東ドイツは、西側との玄関だったから「良い見本」として国を作られてたと思う。だから、他の東側諸国よりは暮らし  やすかったかもしれない」 「でも、君ら西側の人が大げさに宣伝するほど、ポーランドでもどこでも「生活に困っていた」わけじゃないんだ。  たしかに今と違って、なにもかも手に入るわけじゃなかった。でも、生活に本当に必要なものはちゃんと手に入ったんだ。  僕たちは決して、「生き残りをかけて戦ってた」んじゃなくて、普通に生活してたんだよ」 「今と比較して、どちらが良いかという質問に答えるのはほんとうに難しい。自分は幸いにして仕事もあるし、ちゃんと生活  できている。だから、物がなんでも手に入るようになったことや、こうして自由に外国にいけるようになったことはうれしい。  でも、先のことについていつも不安だ。いつ仕事がなくなるかわからない。事実、仕事が無い人が沢山いて、問題になって  いる。東ドイツのころは、そんなことは考えた事もなかったよ」 皆さんはどう思われるだろうか? この発言は、決してKGBなどの秘密警察に監視されて喋っているのでもなく、彼らは間違いなく現在「言論の自由のある西側 国に住んでいるドイツ人」である。政治的にコントロールされた発言では無い。 また、彼らは決して郷愁で話をしているのではなく、昔の問題も織り込みながら現在との比較をしようとしている。 もちろん、わたしは決して社会主義体制が良いという主張をしたいのではない。 注目したいのは、「西側のプロパガンダ」である。私が聞いてきた東ドイツの事情とはだいぶ話が違うではないか?? イラク戦争など最近の戦争沙汰には、かならずこの手のプロパガンダが出現している。あまりにも現実とかけ離れたことをごり 押しにやると、今のアメリカみたいに「誤りでした。でも...」なんて話になってくる。 一体「情報」というものをどこまで信用すればよいのかわからない。 ただ、今の時代に言えることは、インターネットなる個人レベルの情報源が多くの国に張り巡らされたおかげで、人々は生の 情報を知る事ができるようになった。 氾濫する情報をいかに取捨選択し、自分の信じるものとしていくかというセンスが、とても大事になってきたと痛感する。 さて、東ドイツの話をしたあとに「ベルリンの壁が崩壊したとき、どう思いました?」という質問に対する答えは、さすがにみな それぞれ違う。「東ドイツもそんなに悪くなかった」と熱っぽく語ったあとだけになんとも言いにくいみたいだ。 そして総括といった意味では、「今の方が若干良いね」と3人とも言った。自由のすばらしさなのだろう。 しかし、彼らの語っていることが極めて一般的な話だとしたら、「若干良い」というのは、英国に英語の勉強に来る事ができる人 だからいえることであり、もしかすると多くの旧東ドイツ人は、「前のほうが良かった」と思っているのかもしれない。 本当に考えさせられる話である。 さて、続いては「散髪屋でのお話し」だ。 ロンドンでPROMSに参加していた時のこと、髪の毛がボウボウ状態になったので散髪屋に出かけることにした。 例のごとく「とりむシテチョウダイ!」という言葉だけが頼りである。 ホテルを出て、ロンドン・パディントンの廻りをうろつくが、日曜日だったので散髪屋もやっていない。いつもながらに計画性の ない話だと苦笑しながら、サラダでも買おうかとテスコ(スーパーマーケット)へ向かって歩いていると、「ユニセックス(男女 問わず)OK!7ポンド」とかかれた散髪屋を見つけた。中で禿げたアラブ系のおっさんが、やはりアラブ系の男性を相手に散髪 をやっている。怪しげなのでちょっと迷った。目の前にあるテスコにとりあえず行って、サラダやサンドイッチの入れ替え割引が まだ並んで居ない事を確認したので、もしかしたら散髪をしている間に入れ替え割引になるかもしれないと、散髪屋に戻ってやっ てもらうことにした。店に入ると「ちょっとそこで座っていて!」と椅子を指差されたので座る。 先に通りかかったときに見た男性と同じ人をやっていたから、ほどなくして自分の番になった。 「とりむシテチョウダイ!ワタシ、イマママデ、サンパツヤサンニモンクイッタコトナイアル。ゼンブ、アナタシダイネ!」 なんて言うと、禿頭の散髪屋は「ハハハ」と笑って、早速ハサミを入れ始めた。 「どこから来たか聞いていい?」 「にほんネ」 「日本のどこ?」 「イナカハチガウケド、とーきょーネ」 「東京とロンドンとどっちが物価高い?」 「ソリャ、ろんどんヨ!れすとらんタカスギルネ。ほてるモ、チカテツモ。シンジラレナイアル。」 なんて話から、なぜか少子化の問題になった。ここからはややこしい話しなのでカタカナを止める事にしよう。 「日本の両親から生まれる子供の数の平均は、とうとう1.3人になったんです。これは将来を考えると一番大きな問題です。」 ハサミを入れながら彼が言った。 「へぇ、それじゃ何年かすると日本人はいなくなってしまうね」 おっと、この男あなどれない。少なくとも私はこの問題に気が付いたとき、少子化による若い働き手の現象と、自分たちの世代の 年金を誰が払ってくれるのか?といった経済面の話に気がついて取り組むべき問題だと認識したのだが、人口の減少については、 その後どこかで読むまで気がつかなかった。この禿頭のおっさんはそれを一発で指摘した。かなり算数的な頭を持っているらしい。 散髪屋で驚くと、変なところにハサミがはいるとこまるのだが、この日はそんな事は無かった。 「そうです。それに、若手がいないと年金の問題とか、逆に老人の働き口とか大変なんですよ」 「そんなの簡単じゃないか。君ら金持ってるんだから、パキスタンやそこらから子供買ってくれば良いんだよ」 彼は続けた。 「道の反対側に部屋が見えるだろ。あそこには何年も前からパキスタン(かどこか)から来た人が住んでる。子供ができて、すぐ  一杯になる。育つとまた子供ができる。こどもなんて一杯いるんだし、みんな育てるの大変だ。だから買えばよいんだよ。  どうだい。簡単だろ。君の国の首相に提案してくれよ。」 わたしは、日本という見かけ上はほぼ単一民族で構成されている国家において、明らかに違う人種を「輸入」することについては、 心情的に多くの抵抗があるといった話を出来るほどの英語力も、そして確信もなかった。 しかし、何らかの対策をうたないと、日本は滅びてしまうのは彼の言うとおりである。 わたしの案は、「ベビーブームを作る」案として、闇雲な話ではあるがたとえば二人目と三人目の子供一人当たりの助成金を、 高校卒業まで18年として、年間40万円ずつ支給するといった「ニンジン作戦」である。18年で一人当たり約720万円。 使い道は、ローンを組んで増築するもよし、良い部屋を借りるもよし、学費保険に入るもよし、制限を設けない。 一体何人生まれるか予想しているわけじゃないが、去年115万人生まれたそうだから、効果がでて200万人生まれるとし て、150万人が二人目と勝手に解釈すれば。年間6000億円の出費が一年目。このまま150万人ずつ対象者が増加して18 年目の費用は12兆8000億円。国家予算を適当に最近の80兆円くらいとすれば、約16%が子供対策に廻る事になる。 これがどんなに恐るべき支出なのか私にはわからない。ど素人の勝手な考えでもあるし、「子供が生めない人に不公平」なんて 声もありそうだ。ただ、こういった具体的なアイデアをもってこないことには、現実として日本は滅びるのである。 わたしは、子供が沢山増えれば、その関連の産業が潤い、住宅についても当然増えなければならないし、年金の心配がなくなり、 預金を楽しみに回す人が増え、経済は好転するから税収も増えると思っている。 みんな不安の塊になっている日本の状況を救うのは、ベビーブーム以外にないと考えているのである。 不安からさえ抜け出せれば、膨大な預金はかならず引き出されて、経済を好転させる事になるだろう。 経済学者という名の評論家たちは、無責任に「個人より企業」だとか「金利を下げないと預金はでてこない」などという伝説を 語り続けた。しかし、日本は超高齢少子化社会という人類において未曾有な状態を走り始めている。残念ながら過去のデータを 参考にして経済を語ることは大変難しくなっているのだ。彼らは何年前の世界を元に話をしているのだろうか? 少子化対策に関する現状への批判を書くとすれば、それはあまりに女性の職場といったことに言及しすぎている事だと思う。 職場を良くすれば子供が増えるというのは幻想ではないか?もっと即効性のある対策を打つべきだと、わたしは感じている。 散髪屋の彼が言うとおり、外国の子供を買うような話が近い未来、当たり前のように行われているかもしれない。 すでに日本も、六本木あたりを歩いたときに出会う人々をみていると、日本人を含めて、もう自分がどこの国にいるのやら判ら ない状況になりつつある。即効性のある少子化対策として、採用されたとしてもおかしくはないだろう。 ただ、この話題を私が語るのは天につばを吐いているようなものだ。 「おまえがはよ子供つくれ!」と、各方面から言われている。 もちろん、わたしも欲しいのだが、その前にこんなコ難しいことをぶつぶつ考えているような奴には、嫁さんのきてが無い。 リュックサックを背負ってる太った男が「オタク」といわれる人種に多いことから、「デブオタ」なる言葉があるらしい。 毎日リュックを背負って通学し、暇つぶしにネットを見ては喜んでいるわたしは、まさに「デブオタ」だ。 まったく困ったものである。 さて、次は軽い話をひとつ。 またドイツ人の話題である。 ドイツ人といえば、世界的にみても堅物のイメージが強いのではないか? わたしも、良くドイツ人が言う「第一に、第二に」という論理的な発言を聞くたび、「おぉ!ドイツ人や!」と喜んでいた。 しかし、最近の学校の授業で、「縁起かつぎ」の話がでた。 「黒猫が目の前を横切ると縁起が悪い」 とかいう奴である。 ドイツ人だから、そういう話題は「非科学的である」と一蹴するのかと思っていたら、全然違っていた。 まぁ、良いも悪いもあることあること。 「靴をテーブルに置くと縁起が悪い」だの、「はしごのかけてあるその下をくぐると縁起が悪い」だの、「煙突を掃除した直後 の汚れた人を見ると縁起がよい」だの、「朝に蜘蛛をみれば縁起が良い」だのと沢山出てきた。 日本勢としては、「つめを夜に切るな」とか「夜に口笛を吹くとヘビ(または泥棒)がくる」とか思いついたが、縁起の良いの がさっぱりうかばず、「霊柩車を見ると縁起が良いという人がいる」といったら、「そりゃ無い」と悶着を起こした。 そのときの先生が、「黒猫をみると英国では縁起がよいのよ」といったのもまた議論を呼び、その晩のパブでは英国人の間でも 意見が分かれた。霊柩車みたいなもんで、人それぞれ縁起を気にして生きているのだ。 ドイツ人とて例外ではないのである。 最後は、意外な意外なテーブルマナーのお話。これは役にたつかも??しれません。 英国(もしかしたら、この地方だけかもしれないのでご注意を)でパーティーに呼ばれたとき。  7時に約束したら、何時に行くのが良いか? 答えは、「7時ちょうどか、それよりちょっと前、つまり6時50分程度」 これは、また物議をかもして、「早くこられたらかなわん。その時間は準備の追い込みじゃないか!」という説(わたしも支持) が出た。おそらく召使でも使ってる家でのマナーなのだろうとおもう。やはり7時にいくのが良いでしょうというのが、その場の 議論結果ではあります。ご参考まで。 次は、  食事が終わったらフォークとナイフはどう置くか これは、みな大概知っているはずの話である。 答えはなんと、「6時の方向にそろえておく」だった。 ドイツ人から、「そんな馬鹿な!5時(つまり傾ける)じゃないの??」という意見がでる。わたしもそう習ったし、そうして きた。しかし、この件については複数の先生が「わたしは両親から、6時方向にそろえなさいと教わった」とのこと。 生徒一同大変驚いた。 当然のように、これはそのときの参考資料には出ていなかったが、  食事が終わってないというサインは? という話題になった。 わたしは、「ハの字型に置く」だと思っていたのでそういうと、あるドイツ人曰く「それは、もっとくれ、のサイン」だという。 英国の先生にいたっては、「ハの字に置くのはあまり良いマナーじゃないと思う」なんていい始める始末。じゃあ、どう置けば ゆるしてもらえるものやら??ようするになんでもエエの?? あはは!やっぱりマナーなんてものは、どこでも違うもんなんやなぁ!と感心しました。 わたしは天邪鬼なんで、こういう話が大好きだ。申し訳ないことに、食事中のサインについて、その先生のお奨めを忘れて しまったのでここには紹介できないが、ほんとどう置けば良いものだろうか??今度聞いておかねば! もちろんこれからも、食事が終わってないときは「ハの字」に置くことにする。ただ、ドイツでは控えめにしておこうと思う。 そして食事が終わった時は、英国では今後「6時」におくことにしてみようと思う。 「あなた、デボンの人?」 なんて聞かれたら、楽しいだろう。 要するに、マナーというのは英国であろうがドイツであろうが日本であろうが、正確にはその土地土地で全然違うようだ。 このドイツの「英語を勉強しましょう?」のサイトでは、終わったら4時20分に置けと書いてあるし、ほかにも口やかましい マナーを書いているから、ドイツ人一般もそんなに堅苦しくなくご飯を食べているのだろうと逆に感じる。 http://www.learnenglish.de/culture/eatingculture.php このほかにも一杯テーブルマナーのページがあるから、知っていて損な知識でないことは間違いないだろう。 当たり前の話だが、口に含んだまま喋るなとか、皿をテーブルに置いたまま口を持っていくなとか、片手で食べるとき空いた 手はテーブルに置けとか、他の人が「これは情けない」と感じない程度のマナーは実践しなければならない。 これはマナーというより常識の世界ではないだろうか?おそらく、多くの人がそういう行為をみれば、理屈ぬきに不快に思う だろうからである。 そういえば、晩餐会などでかならずフランス料理が出るのは、プロトコルといって、世界中からの来賓がテーブルマナーや 食べ方などで恥をかかないように、全世界で統一されているからだというのを「天皇の料理番」をされていた人がテレビで 話しておられるのを聞いたことがある。 「なんで日本に来てフランス料理やねん!これも反日教育の成果か?!」 などと、思っていたが、この話を聞いて目からうろこが落ちた。 元「天皇の料理番」さんいわく、土地土地の料理などは公開されない昼食などで出されるそうだ。 政治の場に利用されるやもしれない微妙な世界だから、接待するほうもされる側も大変だ。 幸か不幸かそういう世界に縁の無いわたしとしては、呼ばれた時間にちゃんとお邪魔し、食事が終わったらフォークとナイフを そろえて(これにも正式には方向があるらしい)5時の方向に置くことくらい、ちゃんとやっておこう。 その授業でもう一つ面白かったネタ。 「食事中に、「もっと如何ですか?」と聞かれたとき、理由無く断ってはいけません」 というのがあった。 こればかりは多くの英国人じゃない人々が、「ソリャ難しい話だ」と思ったことだろう... もちろんその解答を知った後に、いくつか「断るための理由」を先生に教えてもらったのである。 わたしは、おいしいと思っているのですが。 (と、いうわけでまた次回、よろしくお願いいたします)


2004年10月8日より10月16日まで


友人が実に面白い本を送ってくれた。 らくらくわかる!英語対訳で読む日本史 ISBN4-408-10605-4 実業之日本社 これは、初級英語を楽しく学びたい人にはもってこいの本である。学校で習った日本史なんて、忘却のかなたにあるような話で あるが、「なるほどそんなこともあったかいな」と復習しながら、その英訳を知ることができるわけであるから、興味がつきな い。英語も、本のオビに「辞書なしですらすら読める」と書いてあるとおり注釈が充実しているから、対訳本を取り組む場合の 「むつかしくてあきらめてしまう」といった事も起りにくいと思う。事実、わたしのようなどうしようもない英語オンチにも楽 しく読むことができた。いくつかある漫画日本史のページにまで、もちろん英訳が入っている。 通勤通学時の肩肘のはらない書物として最適だとおもうので、ご紹介しておきたい。 さて、まさにこの本を読みながらロンドンに「日本語教師養成学校」の説明を聞きにいった時の話である。 「坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された」というくだりの「征夷大将軍」の英訳をみて驚いた。(引用はもちろん前出書) Seii-tai-shogun (Barbarian Subduing Generalissimo) 征夷大将軍    野蛮人  征服する 総司令官 おいおい、バーバリアンて野蛮人のことやったん?? 早速、さすがに説明会にでかけるのなら、英国人とややこしい話があったらかなわないとばかりに持っていた辞書でひいてみる と、まさに「野蛮人」とでてくるではないか。 では今年のプロムスで演奏した「あの」オーケストラはどうなるねんとおもって調べてみると、ちょっとだけ違うのである。 Bavarian Radio Symphony Orchestra へ?この日本人が苦手とするBとVの違いだけで、「野蛮人放送交響楽団」かどうかを判断せんとあかんのん?? なおややこしいことに北方に住むドイツ人は、同じ国の南方にある Bavaria 地方に住んでいる人を、よく影で田舎者扱いする のである。「あいつらは言葉も違うし、粗暴だし...」みたいな調子だ。 バーバリアンについては、何度かBBC PROMS 2004のページで取り上げているので、そちらもご参照いただけ ればと思うが、 Bavarian には悪いが「前後関係で意味を汲み取ること」が大変難しい言葉なのだ。 さて、 「こりゃ、プロムスのページを更新しないとあかんな」 と、思いつつページを進めていたら、同じようなものにまた出くわした! 倭寇の説明である。 Japanese pirates called Wako infested East Asia      海賊     倭寇 横行した ドライバーのデビッドは、いつも出かけるカントリーパブツアーの途中で、とある墓地に我々を案内することにしている。 夏以外では、日が暮れた後のくらやみの墓地であるからとても雰囲気があり、たまには怖くて逃げてしまう人もいる。 彼は皆と共に教会の敷地に入り、まず墓石が一杯立っているなかにある樹齢1300年といわれる巨大なイチイの木の下にたって、 「英語には3つのユーがあって、あなた・君の You と、雌羊をあらわす Ewe と、この木を指す Yew があります。発音はまっ  たく同じです。」 という話をする。さらに、その赤い実に毒があって、昔の奥さんが若い男をつくったら簡単にそれで旦那を殺せたという話を して笑いを取る。中には「どのくらい入れたらいいの?」と聞く女性もいるから楽しい。 アガサ・クリスティーもこの実の毒をトリックに使っている。 話がそれた。 イチイの下を出ると今度は、とある墓石のところいってこういう。 「これは英語でなんですか? Gravestone です。大きいものや、アメリカでは Tombstone とも言います。ところで...」 ここでくらやみの中、墓石に懐中電灯を当てると、骸骨に骨をクロスさせた海賊のマークが浮かび上がるのだ。 「このマークの意味はなんですか?」 そこでみな口々にいう。「毒!」「危険物!」「パイロット!」 「そうです。これはパイロットのマークです。どうしてここにこんなマークがあるのでしょう?」 そこで彼は、もともと船乗りは縁起かつぎであり、特にパイロットは悪いことをしていることを知っているから、特に縁起を かついだのだという話を始める。「あほうどりが日の出前に飛んでいるのをみると、その船から死人がでる」などという話を してからこういう。 「彼らはこのマークを「邪悪が自分たちから離れているように (Keep the evil spirits away)」という意味を込めて使いま  した。現在ではまったく反対の意味で使われていますね。この墓石のマークは当時の意味で使われているのです」 という話をして夜中のミニ墓地ツアーを終了するのである。 なんの話だっただろうか? わたしはこの話を15回近く聞いている。この墓地ツアー?は、水曜日の晩に歌を歌いに行く前に必ずと行ってよいほど実施 されているからである。 そして、何が問題であったかといえば、おそらくこれを読んでおられる方はもうお気づきだろうと思うが、私はディビッドの 話す「パイロット」という言葉について、このありがたい本を読むまで完全に誤解していたのである。 Pilot という単語の意味は「水先案内人」である。また、もっと簡単な意味では、飛行機のパイロットがこれにあたる。 海賊という英語はしならなかった。これが先に倭寇の項目でたとおり Pirate だったわけである。 日本でかな表記すれば、どちらもパイロットだろう。 そして、発音記号をみればまさに、日本人の苦手とするLとRの違いだけだ。なんというややこしい言葉だろうか!! 同じ海面におけるマジメな職業か、不埒な職業かが、RとLの発音の違いだけで変ってしまうのだから難儀な話だ。 しかしどうして私はこの Pilot なる言葉を、デイビッドの言う「悪い事をしていることを知っている」という話に対して 何の問題もなく受け入れてしまったかである。 これもバーバリアンの話と同じように、この地方のややこしい事情がからんでくるのだ。 実は私の住む Torbay といわれる場所は、Pirate ではなく Pilot がいまだに職業として活動をしている場所なのである。 英国海峡の安全上の要所として認められており、海の沖合いでは高速艇にのった水先案内人が大型船に向かったり、あるいは 離れたりしている光景を良く目にするのだ。海路における人間の経験というのは、いまだに高性能レーダーや海底地形探知機 よりも信頼のできる情報であることが多いというのが存続の理由だ、とデクラン親父は説明してくれた。 ところでそういった場所であるからこそある話が、通行する船を狙った海賊の話しなのである。もっとも、聞いてきた話とい えば、「岩礁のそこかしこにランプをともして、村があるかのように錯覚させ、近寄ってきた船が座礁したところで金品を 奪う」という話であって、どくろマークの海賊とは程遠いセコイ話なのであるが。しかし、これは本当にこの地方で海路に 不案内な外国船を狙って行われていた行為であるから、LとRの区別がつかない不幸な日本人のわたしとしては、簡単に混同 してしまうのは、さして変な成り行きではないのではないか。 「ウソの水先案内でもして、岩礁につっこませていたことが多かったのだろう」という按配に想像できるからだ。 いやはや、「初級の英語」で、まったくいろんなことを教えてもらえるものである。ほんと、友人に感謝せねばならない。 さて、最後にまたちょっと漫画のような体験をひとつ。 日本語教師養成学校の説明は大変楽しく、とりあえず願書を出す事にした。入学審査があるとのことなので、入れてもらえる ものかどうかはまた先の話になりそうだ。引越しやビザのことで、考えなければならないことが、これから山積みになる。 「わたしは大阪弁しか話せないのが心配なのですが」と尋ねたらなんと、 「講習の中に正確な日本語の発音が含まれており、実習ではそれもチェックされます」とのこと。 無事卒業して帰国したら、アナウンサーにでもなれるかもしれない... そんなアホなことを考えながらロンドン発の列車に日帰りで乗り込んだ。もちろん今回ご紹介の本を持ってである。 たまに辞書を引きながら楽しく読んでいると、あっという間に時間は過ぎて、わたしが住むデボンの近く Tauntonという駅に やってきた。予定ではあと1時間ちょっとで到着である。 そこで車掌さんからアナウンスがあった。 「みなさま、トーントンへの到着が早すぎましたので5分停車いたします」 列車内少々の笑い声が起って、あちこちで「5分早いんだって」などと携帯電話で話しをしているらしい声も聞える。 さて、5分にしては少々長いなと思った頃、また車掌さんからアナウンスがあった。 「みなさま、まことに申し訳ありませんが、停車中にディーゼルエンジンが停止しました。しばらく発車できません」 なんじゃそりゃ! さっきは軽い笑いだった反応が、今度は「ちっ」とか「なんちゅう愚かな話や!」といったざわつきに変った。 そりゃそうだ。早くつきすぎてのんびりしてたら壊れたなんて、まるでウサギと亀のはなしみたいなものである。 しばらくたった後、 「みなさま、もう少しで発車できるので、車内でおまちください」 というアナウンスに、「そりゃ、できそう(Could be)やろけど、間違いなく(definitely)じゃないわな」なんて声も上がっ てる。事実、いつも遅れるヴァージンの列車が他のホームに後からやってきて、これがご丁寧なことに同じ方面行きの列車 だったから、「あっちがいいな」なんて言ってる人もいる。もちろん、先に出て行った。 結局列車は20分遅れて、車掌さんによると「エンジンが一つとまったままで」出発した。 わたしはそのあと2つ目の駅で乗り換えの予定があり、待ち時間がこれまた20分。もしかすると、丁度良いかもなどという 期待をしながら乗っていると、スケジュール変更の影響からか、あちこちで信号停車し、30分遅れになってしまった。 さすがにもういないだろうから、夜中の次の電車に期待するより、乗り換え地点からバスで帰ったほうがよいかな(そんなに 遠くないので)などと考えていたら、わずか1両で運行されているローカル線の電車がぽつんと駅で待っていてくれた。 ありがたい!! 早速走って乗り込み、無事ペイントンに帰ってくることができたのである。 実はこれまで、アイルランドやスコットランドなどに行くにも、プロムスに行くにもいつも列車を使ってきたが、乗換えが うまくいかなかったことは一度も無い。その遅れ具合、頻度からして、これは奇跡に近いようにも思われる。 神様に感謝しておかねばならない。 (次回は引越しの準備とかなんとか、いそがしそうです。)


2004年10月9日より10月23日まで


以前から書いているとおり、わたしは神様というか全知全能の何かの存在を信じている。 だから、大変お気楽な人生を楽しませていただいているのだが、人間には「選択」というオプションが用意されている事が、 これまた別の意味で楽しみとして与えられているようでもある。 今いるペイントンのフラットを出なければならないという話を、まず神の声として「ペイントンを離れるときだ」と解釈し、 学校に行ってクラスメートに考えてもらった「日本語教師になればよい」というのも同じように天の声として解釈した。 考えてみれば至極自然の話しである。前から教師になりたいなんて言っていたのだから、外国で最新の教育法を勉強すれば 経験や英語という意味でも一石なん鳥になるものやらという良い話だ。 さて、ここまではトントン拍子だったのが、ここにきてなにやら雲行きがあやしい。 説明会から帰ってきて、月曜日に学校に行った際、グリニス先生に「リファレンス」とよばれる身元推薦状みたいなものを 書いてもらいに行った。するとグリニス先生は「ちょっと」忙しいという事で、代わりに校長のデビッド先生が出てきた。 これは今までも良くある事なので、カクカクしかじかと事情を説明して、グリニス先生にリファレンスを書いてもらうよう に頼んだのである。もちろん、「ペイントンにいたかったが、神様の声を聞いたので」という理由も忘れなかった。 彼は「それは英語で、「小鳥がささやく」というんだよ」みたいなことを言う。いつもおもしろい人なのだ。 「じゃ、グリニスにわたしとくから」といわれて別れる。 今日は日曜日であるが、まだそのリファレンスは手元にない。 実は先週のグリニス先生、「ちょっと」どころか「先生になるための試験官」として超多忙で、電話がかかってきても居留 守を使う指示がでてるほどだったのだ。 それならそうと言ってくれたらよいのに! グリニス先生に相談に行こうとする前、長く私の先生を務めてくださったジル先生に頼むかどうかで悩んでいたのである。 しかし、ジル先生には最近学校でもなかなか会わないので、休暇かなにかかなとおもっていたから、グリニス先生にお願い した。ところが、デビッド校長と話をして、指定の「リファレンス用紙」を渡した直後に、ばったりジル先生に会ったのだ。 それどころか今週は仕事に復帰されたようで、なんども廊下でお会いしたのである。 まぁ、これも神様の声と解釈して、別段デビッド校長に文句を言いに行こうとは思わないのであるが。 それにしてもなんとも微妙な「声」ではないか。 そして次の「声」が聞えてきた。 日本語教師養成学校の審査には2週間かかるというので、来週の月曜に出しても結果がでるのは11月9日ごろ。不動産屋に 指定された「退去日」は11月8日。それならばと不動産屋に「なんとか1週間のばせない?」とメールを送ったら、すぐ OKをもらった。家主はこの部屋を売ろうとしているみたいで、「たまに人が見学に出入りするので、そのときは連絡します ね」とも返事のメールには書いてあった。これは前向きな「声」だと思う。 日本語教師養成学校にもメールを書いて、結果については郵送せずロンドンで受け取るようにできないかと相談すると、それ は問題ないとのことだった。なぜそうしようとしたかといえば、9日の週はロンドンに滞在して、一気に家を決めてしまおう とおもったからである。家にはおそらく入学証明か、リファレンスの類が必要だから、手続き関連も含めてロンドンでやって しまおうという戦略だ。ネットで検索するかぎり、学校のある北グリニッジ付近の1ベッドルームフラットが月12〜15万円 (600〜750ポンド)程度。もちろん今よりは高くなるが、思っていたより悪くない値段でみつかりそうかもと期待して いる。家さえ決まっていたら、レンタカーを借りて引越しすれば何も問題ない。電話などもネットで移転できるのだ。 ADSLはちょっと時間がかかるし、移転費用がかなりかかるらしいがこれは「遅れている」国だからしょうがない。 不合格だった場合は、ホテルを数泊キャンセルしてペイントンに帰り、帰国のための荷造りに入ろうと思う。つまり、日本に とりあえず帰ろうと思っているのである。その後、またニュージーランドやカナダなどに飛んでいく可能性もあるが、そこま ではまだ決めてはいない。 入学願書を書いて送ったら、これからの2週間ペイントンで楽しく過ごし、11月8日の週ですべてが決まる。 すでにロンドン行きの鉄道と、プロムスでお馴染みになったホテルを予約した。 神様がどっちを向いてるものやらさっぱりわからないが、ここまで来たら流れにまかせるしかない。 今日はあまりネタがないので、最後にわたしが愛読しているブログをご紹介しておこう。 ブログというのは、もともとWeblog(ウエブログ:日記)といわれていたものが、blog(ブログ)という省略形の 名前が一般化したものだ。要するに私の旅行記や滞在記も一種のブログなのだが、最近のブログはサーバーなどが提供する、 簡易作成ツールが良く機能していて、コメントを簡単にやりとりできたり、トラックバックといわれる相互情報交換機能も 使えるし、なにしろ無料で1Gバイトの空間を提供するところもあるなど、至れり尽くせりの状態だ。 ちなみにわたしはこの滞在記を、ウィンドウズXP付属のワードパッドで作成し、カナダにあるサーバーには30Mバイトの 空間しかなく、かつ年間数万円のサーバー使用料を払っている。同じ事を今後やるならブログで充分なのだが、なかなか時代 に対応できないというか、要するにスタイルの変更が邪魔臭いだけで、このような形式を使っているわけだ。 しかしながら、他の人が書いておられるブログにはおもしろい物が多い。キワモノから、正統派までいろいろある。 そんな中から今日は、次の二つをご紹介しようと思う。ちなみにわたしは、ただ読ませていただいているだけで、コメントを つけた事も無い。 まず一つ目は、  ジョージのブログ (by Fugafuga Lab.) わたしが現アメリカ大統領のことを良くおもっていないことは、毎度書いている話である。 彼はヨーロッパ中の人から嫌われているという事実も何度かご紹介した。 しかし、わたしが嫌いなのはその戦争に対する政策からであって、決して彼が猿に似ているとか、そういう理由ではない。 ところがこのブログの管理人リコさんは、彼女の最近の時間の多くの部分を、「かの大統領がヘンなことを言っている」と いう話を追いかけることに消費している。彼女自身英語関係の仕事らしいので、かの大統領が発言したそのままを翻訳できる。 マスコミの影響の無い、しかしちょっと悪意の入った翻訳を、我々読者にわかりやすく提供してくださっているのである。 彼女はついにそれら情報をまとめて、本の出版まで果たしている。 これは本当におもしろいブログだ。彼女が京都在住ということもあって、関西弁がその楽しさを倍化している。 わたしは、ケリー候補との公開討論の件を検索していて出会った。噂には聞いていたが、彼がこんなに素晴らしい英語を喋っ ているとは...そりゃ、移民のターミネーターさんだって大統領になれるかもと思うのも無理は無い。 一つだけごく最近のを引用させていただこう。 >St. Louis, Mo., Oct. 8, 2004 > >問題の真相は、注意深く聞いてみれば、もしケリーがアメリカ合衆国大統領であったのならば、サダムはいまだに権力を持ち、 >世界はよりよくなっていただろう。 > >The truth of that matter is, if you listen carefully, Saddam would still be in power >if [Kerry] were the president of the United States, and the world would be a lot better off. > >ボケたな。 > ほんとにこんなことを言っていたんかいなと思うが、ほんとうらしい。 このブログにはこんな逸話が満載だ。更新が待ち遠しいページである。 続いては、180度方向の違うページを。  小川アンリのきままなパリ日記 この方も翻訳の仕事をされている方らしい。 いろいろなことや事件に一喜一憂されている様子がとてもよくわかる。 同じ外国に暮らすものとして、なにやら共感できるものがあったり、また人それぞれの人生について考えさせられたり。 わたしはネットに日記を公開することについて、どちらかといえば否定的な考えをもっていた。 このページも、英国滞在といったある意味「事件」であるから、なにかの参考になればと書いているのであり、事実、日本で 過ごしていた時期には殆ど更新していない。(今日の話などは、かなり日記的ですね) しかし、最近ブログに多く接するようになり、日記そのものでも面白いかもと思うようになった。 人が持つ多様性、考え方の違い、環境の違いなどなど、何をとっても人が書いている事というのは極めて興味深い。 blog すでに重要なネット文化であるが、今後も注目していきたいと思う。 (次回は...まったく未定です)


2004年10月24日より10月31日まで


日本のニュースはいつも見ているので、何が起っているのかは良くわかっている。 最近は台風とか大地震とかで本当に大変との事。特にお亡くなりになられた方には、謹んでお悔やみを申し上げたい。 英国での扱いを紹介すれば、あの大風の台風23号は「Typhoon Tokage」として紹介されていた。 ちなみに「Typhoon」という言葉は、日本語から英語に渡った「Tsunami (津波)」などと同じような言葉だと思われがちであ るが、逆にこれは他国語から日本語になった言葉らしい。元々日本語では「野分(のわき)」と言ったとのことである。 興味のある方はこんなページを参考になさると尚詳しく解説されている。ほかにも検索するといろいろ出てくる。  語源由来辞典 台風 新潟地震のほうは、BBCでは発生直後から特派員報告とNHKの画像によって紹介されていた。何人亡くなったといった 詳細な報告も流されていたし、中東情勢、アメリカ大統領選挙と共にトップニュース扱いだった。 ところで、事故などで人が亡くなる場合、英語では「kill (殺す)」という言葉を使う。 たとえばこんな按配である。 Typhoon Tokage Kills at Least 31 in Japan 「台風トカゲで日本では少なくとも31人が亡くなりました。」 というわけだが、学校の廊下にはられている事件年表のようなものには次のようなものもある。 Princess Diana killed... これを直訳すれば、「ダイアナ妃が殺されました」というところだろう。 真相は闇だが、その直訳どおりだとわたしは思っているのだが... さて、なぜ今回このような天変地異をテーマにしているかなのだが、実は私も洪水の被害者になったからである。 と、いっても水曜のパブに歌いにでかけることができなかったというような小さな話なのだが。 ここ最近の南西部イングランドの気候はまさに異常らしい。 学校の先生であるドナも、「こんな天気が来年も来たらわたしはここを離れるわよ!」なんて言ってるほどである。 まぁ、毎日まいちに雨のふる事降る事...最近は、朝起きたとき雨音がしていなかったら不思議におもえるようになった。 そして先週の水曜日、朝目覚めてみると、外にはまるで映画に出てきそうな不気味な朝焼けが出ていた。 天気予報では暴風に注意ということで、雨が降ったりやんだりする中なんとか学校には出かけ、帰ってきてからも暴風の音を 聞きながら昼の時間を過ごした。水曜であるからパブに歌いにでかけなければならない。いつも19時20分ごろに家をでる。 帽子の上からレインコートを着込み、部屋の鍵をしめて、アパートから出るためのカード式ロックのドアのところまで行くと、 ずぶぬれの女性が立っていた。 「出かけるの?そとは洪水よ!ここまで来るの大変だったわ!」 なんと、洪水だって? ここペイントンは川が殆ど流れていないので、洪水なんてちょっと考えられなかったが、なんといわゆる高潮が発生していた。 このあたり一帯は干満差が5mほどある。満潮時に暴風が追い風で吹きつけたので、波が堤防を越えて道が冠水してしまった のである。わたしは冠水した道をなんとか避けて通ろうと、パブの庭などを通ろうとしてみたが無駄だった。 やむなく引き上げ、あと2回しか行けないと思っていたパブ行きが、ついに1回だけを残すのみとなってしまったのである。 早速停電や断水にそなえて、懐中電灯の準備や風呂に水を張るなどしておく。 ペイントンでは被害を受けたのはここらあたり一帯だけだったが、デボン、コーンウオールなど南西部一帯は、高潮の大被害 を受けて、ローカルニュースはその話で満載だった。 ニュースといえば、「海岸は大変危険ですので、近寄らないでください。トーキーでは海岸の車が水没したりしています!」 などというアナウンスを何度も聞いた。たしかに、わたしが冠水で引き上げてきた道からも、豪快な波が見えていたから、 とても行ってみたくなったのは事実だ。水がもう少し低ければ、おそらく波打ち際に行っていたに違いない。 (低ければパブに行っていたという説もありますが) そういえば、先生のドナも、「明日のニュースにはきっと、「波の見物で行方不明」という人がでるわよ」なんて事を言って いたから、野次馬根性というのはどこも同じなのだろう。それにしても「水没してる車があります」なんていわれたら、近く の暇人は行ってみたくなるんじゃないだろうか?幸いにしてトーキーには歩いて50分ほどかかるから、関係なかったが。 翌朝に学校へ行くために道に出てみると、ウソのように水は引いていたので問題なく学校に行けた。 洪水で足止めというのは、いままでで2度目の体験である。一度目は出張で博多のホテルに泊まっていて、翌日が休みだった ので、レンタカーを借りて観光にでもでかけるかと思っていた時の話である。夜中に喉が渇いて、近くのコンビニに行った。 行きがけは普通の雨降りだったのが、帰りには土砂降り。散々濡れて帰ってきて、お茶か何かを飲んで寝たのはよいが、翌日 起きてみると断水停電していた。5階だったかの部屋から道路を見下ろすと、川になっていたのですべてあきらめたのである。 結局11時過ぎまでホテルを出ることはできず、急遽予定を変更して東京へと帰った。福岡空港までの地下鉄も止まっており、 どうせ観光がてらだと歩いて空港に向かえば、かんかん照りの天気になって行程まさに半分で挫折し、タクシーを拾って空港へ 向かうというテイタラクだったことも覚えている。 天変地異というのは、ほんのその程度でも生活に大きな影響をあたえるから大変である。 そして天変地異といえば、この10月はわたしにとって本当にツイていない日々だった事も付け加えておこう。 詳細に書くのは自分自身としてもおもしろくないのでやめておくが、まぁよくこんなにいろいろあるわいなという程いわゆる 「ツキ」がなかった。証券会社に株売却分の銀行への振込みを頼んでいたら期日に入っていないので聞くと「忘れてました」 とか、そんな調子の話が立て続けに続いている。その売った株にしても、売った直後に上がり始めていて、とても悔しい。 その日に売らないとビザ延長申請の手続きに間に合わないとおもって、泣く泣く手放したのに、「忘れてました」でまた遅れ た。その上、ビザ申請に必要な銀行の残高証明が、住所登録先である実家に到着する日をメールしようとしたら、その日あた りから大阪にしばらくでかけるというメールが入ってきた。天は何を私に語っているのだろうか? 縁起担ぎのことを英語で、superstitious (スーパースティシャス)という。 わたしは相当な superstitious であるから、こういう状況は最もつらい。 日本語教師の話は、もしかすると自分にとってよくない話なのかもしれないと最近真剣に考え始めている。 今日も、前回の一時帰国で2着もってきていた冬物コートを、両方とも持って帰っていたことに気がついた。 どうしてそんなことをしたのかちょっと理解に苦しむところだが、こういう些細なことがまたツキ?への疑いをうむ。 かといって、何をすれば良いという啓示?はまだ何も無いのだ。 もうあと数時間で11月である。今日からサマータイムでなくなり、時差は9時間となった。 来月はきっと何かが変るかもしれない。いや、変ってもらわねば困る!!こんなにツイていないとまったく面白くない!! 今日31日、体を休めようとずっと横になっていた。風邪はほぼ大丈夫のようである。 昼過ぎに起き出して、冷蔵庫を覗くと何も無いからスパゲティをゆでることにした。 大きな鍋に水を沢山いれて、電熱器の火を入れる。(電熱器の火を入れるというのは変な表現ですね...) 4つある電熱器のもう一つに、適量の水をいれた小さな鍋を置き、買い置きの即席ミートソースの素をさっと入れた... 見慣れない豆が一杯出てきたので袋を良く見ると、「即席チリソースの素」だった... まぁ、このチリ・スパゲティは思ったより美味しかったので良かったが、「まだ10月である」と一人合点してあと数時間 に迫った11月をこのページでも書きながら待つ事にしたのである。 来月になってもツイてなかったら、太陰暦でももちだしてまた変わり目を探すとしよう! (と、いうわけで、少々先が不安な毎日です)


2004年11月1日より11月2日まで


この話は番外編に書こうかあるいは、やめておこうかと悩んだ上でここに記すことにした。 他でもない、イラクで香田証生さんが殺害された件である。 事件発生以来、前の3人が人質になった件同様、ネットを使って情報を収集していた。そして、最悪の結末となった。 前回の事件についてわたしがここにあまり詳細に記さなかったのは、この滞在記となんら関連性が見つからなかったからで ある。しかも彼らの行動には何の共感もできないばかりか、嫌悪感すら抱いていた。なんの証拠を持っているわけでもない から、嫌悪感などというのは被害者とされる方々に対して失礼な話しだ。しかし、拉致されて解放された人が、自分たちの 持ち物を貴重品を含めて全部返してもらえたなんて話は、どんな小説家だって思いつかなかっただろう。客人として歓待 されていたというなら、英国でも放送されたすさまじい脅迫画像はなんなのか。あれを撮影したあとに、3人の思想に触れ て客人にかわったというのなら、どうしてもっと早く解放しなかったのか?あの話には変なことが多すぎる。 だが、今回の件は違うのである。 ネットで情報を集める限り、幸田さんの行動を軽率だとする意見が多くを占めている。わたしも基本的な線ではもちろん 同意である。まったく涙が出るほど軽率な行為だ。 しかし、ふと一人で外国に暮らしているという状況を考えていただきたく思う。 順風満帆に行っているときや、テストなどなにかに没入しているときは良いのだが、なにかのきっかけでタガが外れた時 などは、「自分はいったい何をやっているのだろうか?」と考えてしまうこともあるのだ。 わたしがアメリカ大陸一周旅行を計画したとき、サンフランシスコに住んでおられた先輩が「60%くらい死ぬつもりで 行かないと危ないぞ」と半分冗談を交えながら注意してくださった。幸いにして、ちゃんと走り回って帰ってきたから良い ようなものの、どこかでひっくり返っていれば、先輩はインタビューに対してあのヨルダンのホテルマンの人と同じことを 答えられていたかもしれない。 そして、まさにあの日記にも書いたとおり、わたしはあの旅行に「自分がまだ必要とされているかどうか」を賭けた面が あるのである。これはキザでもなんでもなく、本当にそう思っていた。大変と思われる旅行をやって帰ってこれたという事 は、まだ神様に与えてもらった役割が終わってないのだなと確信できるのに充分だった。 彼がどういう気持ちでイラクに向かったのか、わたしにはわからない。お金が殆どなかったとか、服装について現地では 無謀とされる格好をしていたとか、バスのスケジュールを知らなかったとか、準備不足についてはほんとうに信じられない ほどだ。しかも、国レベルでやって欲しくないといわれていることを、現地の周りの反対まで押し切って実行しているの だから、許されて良い行為では無いことは間違いない。 しかし、わたしは彼のことをとても哀れに思う。自分ならあんな事まではやらなかっただろうし、今後もやらないだろうが それでも何か共感めいたものを感じてしまう。ただいたずらに彼を軽率だと非難できないのである。 彼が軽率だったなら軽率であったほど、救ってあげたかったように思えてならないのである。 それはいわゆる親鸞上人の悪人正機説的な話しではない。外国でも国内でもかまわない、自発的かどうかを問わず、人との 精神的あるいは肉体的距離が遠い状態の人にとって、無茶の度合いはあるにしろ、やってもおかしくない話だと思うからだ。 そして彼のあまりの軽率さが、そのまま人生をかけた自分試しだったように思えてならないからである。 ヨルダンで彼を引きとめようとした人の話に、「自殺にいくようだった」という主旨の発言があったと思うが、まさにその とおりだったのではと思えてならないのだ。 もちろん、彼の気持ちを勝手に想像して、共感じみたことを思っているだけに過ぎないのかもしれないが。 わたしは聖堂などでお祈りをするとき、かならず「神様の思いを私や周りの人々が受け止めることができますように」とい う祈りを入れることにしている。だからといってこの結末を、いつも自分にあてはめているとおり、「神様の計画がそう だったのだ」と割り切れるほど私は聖職者ではない。 今回の件で、同じような無謀なことをする人々が減ることを祈らずにはおれない。 残酷な言葉だが、それが今度の件の救いとなればと思う。自分を試すには、他にいくらでも方法はある。 そして、幸田さんのご両親に少しでも平安な日々が戻る事を。 つつしんで香田証生さんのご冥福をお祈りいたします。 後記: 世界平和を標榜する団体が幸田さんの死を政治運動に利用していることに対し、親族の方から抗議が出たという。 当たり前以前の問題だ。そんなこともわからずに、世界平和などという難しい問題を議論できるなど到底思えない。 (次回にはこんな話は書きたくありません...)


2004年11月3日より11月7日まで


もう完全に混沌としてしまった。 日本語教師養成学校からの合格通知を頂いた翌日、ロンドンの不動産屋から連絡があり、アポイントを取っていた家が 紹介できなくなったという。 理由は「保証人をたてられないなら貸せない。」 これは、外国人には貸せないと言っていることに他ならないとおもう。なんとかしてくれというメールを送ってみたが、 まったく音沙汰はない。あと数件他の不動産屋に資料請求しているが、アポイントをとれたのは一件だけ。一つの不動産 屋に話を聞くだけというのはなんとも心もとないと思う。 断ってきた業者は、保証人の件以外ではとても親切で、ほぼそこに決めようと考えていただけに、ショックが大きい。 また一つ、ロンドンの話が遠くなったとおもっていたら... その夜、決定的とも言うべき事件が起こっていた。ラジオをつけていなかったので知らなかったのである。 この写真は産経新聞のサイトからとったものだ。無断転載をお許し頂ければとおもう。  http://www.sankei.co.jp/news/041107/kok033.htm 車と衝突し、列車脱線 英南部、6人死亡 わたしはこの路線の同じ高速鉄道に乗って、明日月曜日ロンドンに行く事にしていた。 同じ時間の電車には乗ったことがないが、PROMSの時に毎週のように通った路線である。 日曜朝、週末は1時間遅く鳴るようにしているラジオ目覚ましで目が覚めてみると、なにやら衝突がどうとか言っている。 よくよく聞いて見ると、どうもいつも利用している Great Western 鉄道らしいし、6人なくなったとか言っているような ので、早速BBCニュース24を見るためにテレビをつけた。まだ明け切らない朝の少し暗い映像だったが、列車が横倒し になっている様子は良くわかった。 「こりゃ終わったな」 私の心のなかで、何かが崩れていくのを感じていた。 ココ最近本当に変な事ばかりで、神様が日本語教師養成学校の件は考え直せとおっしゃっておられるように思えてしょう がなかった。もちろん、この事故で亡くなったかた、怪我をされた方にはまったく失礼な話しであり、かつこの事故が 私に今後のことをどうこうしろと示しているのではないことも良くわかっている。 私一人の人生で事故まで神様が起こされるはずが無い。あたりまえだ。 しかし、わたしのこれまでの行動が、このような予兆について正直だったことで、いままで楽しく過ごしてこれている事 を考えれば、これはもう完全にノーであるが...そんなことを今からも言っていて良いものかという気もしてくる。 さて、とにかく明日月曜、ロンドンには行ってみようと思う。ロンドン家さがし体験だけでもしてみよう。 何時間かかるか、はたまた到着できるかどうかすら微妙な旅になる。ここまできたら、天邪鬼な性格をまるだしにして みようじゃないか! まだまだ「流れ」が完全に見えたわけじゃない...と、ここでは書いておこうと思う。 (今回は、パブの最後の夜の話題などを書くつもりでしたが、こんな事情になってしまいました)


2004年11月8日より11月9日まで


ロンドンで家探しをしている。ちょっとその途中経過を書いておこうと思う。 心配していたロンドン行きについては、なんと殆ど遅れることもなく、あっさりとロンドンに来てしまった。 大事故現場はいまだに封鎖中であるが、わたしが元々予約していた列車が普通に迂回路を通る列車だったらしく、定時 どおりにやってきて定時どおりに到着してしまった。あれれ、神様のおぼしめしはどこへいってしまったのだろう? 予定通り、学校のある北グリニッジ近辺のチャールトンといわれるところに、地下鉄とバスを使っていってみることに する。PROMSでお馴染みのホテルにチェックインすると、冷蔵庫付きのはずの部屋なのに、今日は付いてなくて、 文句を言ったが、他に替えることのできる部屋は無いというから、夏みたいにコーラを冷やしておきたいわけでもない ので引き下がることにした。部屋はベースメントといわれる地下ではないにしろ、一階のこれまた薄暗い部屋。 何度も泊まっている割には扱いが悪い。何人かの従業員はもうお馴染みになっているというのにである。 さて、先にも書いたとおり地下鉄とバスを乗り継いで、チャールトンの駅にやってきた。この時点ではまだ「後ろ向き」 な考え方が支配していて、「とりあえず見てみるか」のノリである。 小さなローカル駅の前に不動産屋があったので、手始めに確認をしようとしたら、なんと私が断られた家のような物件が でているではいか!値段は同じ月650ポンド(約13万円)で、ファニッシュド(家具付き)である。先の物件は、 パートファニッシュドといって、キッチン用品だけ付いているというものだったから、こちらのほうが安い。 すぐ飛び込んでみる衝動に駆られたが、ここは一つ土地勘をちょっとでもつけておこうと、まずその物件のある場所に いってみることにした。そこは、アパートがたちならんでいるエリアで、鉄道が近いものの、そんなにうるさくなく、 なかなか良い場所である。 「ふ〜ん、これは先の不動産屋に、ますますいってみる必要があるな」という思いを新たにする。 ただ、どれが件の物件なのか、同じような建物ばかりだからよくわからない。 ま、その中の一つであることは間違いないとおもいながら、今度は学校のある公園を目指すことにした。 チャールストンというエリアは、紅葉の落ち葉がとても綺麗で、雰囲気のある良いところだった。 しばらく歩いていると、なにか後ろ向きな気分が抜けてゆき、ここに住んでみたいなという気分になってくる。 学校も程なくみつかり、その近くにある不動産屋さんをみつけたが、そこはネットで問い合わせをしたが返事の無い ところだった。しかも、一件あたりの単価が高い。750ポンドからである。ここに入るのはやめにした。 学校からまた駅のほうへ歩いていくと、また不動産屋があった。しかしそこには to let の表示があるチラシがひとつ も表示されていない。もちろん無視して、駅前にもどり、先の不動産屋に入って問い合わせてみる事にした。 カタカナで書くのはやめにしよう。 「あの〜、650ポンドの物件に興味があるのですが...」 「もうしわけありませんが、あの物件は現在商談中です」 げげ、はじめから出鼻をくじかれる。 「しかし、他に紹介できるのがあると思いますので、この紙に住所氏名などを書いてください」 その日が暇でなかったら書かなかっただろうとおもうが、何事も経験であるということで書くことにした。 「650ポンドくらいですか。チャールトンには良いのがないのですが、隣町のウールウイッチには良いのがあります」 「どんな間取りで、どのくらいですか?」 「650〜750くらいでいろいろです」 「え、それはアパートメントなのですか?」 「そうです...」 などと受付に出てくれた女性と話をしているうちに、とりあえず見てみるかというので見に行く事になった。 そこで商談をする人物がかわり、ラジなるちょっとインド人にはとてもみえないインド人だという人物があらわれた。 「いつから入りたいですか?」 「実は来週に...実は、殆どくじ引きみたいなもんで、良い物件がなければ日本に帰ろうとおもってるんです」 「え、そりゃまた...実はいま空きの物件がないのですが、とりあえず見に行きましょう」 彼の運転するメルセデスのAクラスにのって約5分。学校からバスで5分か10分ほどの距離に見えてきたのは、英国 ではちょっと見たことの無いような、デクラン親父にいわせればおそらく「めちゃくちゃアグリー(みにくい)」な、 日本風に言えばマンションが見えてきた。簡単にいえば、日本のちょっと大きめのマンションである。 管理人がどかっと正面にすわっている。ラジが彼と話をして、なんと管理人さんが私を案内してくれることになった。 ラジはミルクを買いに行くといっていってしまう。なんのことやら... そこはかなり新しいマンションだった。中を見せてもらうと、驚くほど綺麗で、ビクトリア朝の古い家に700ポンド も出して住む事になる可能性もあるなと思っていたことから考えれば、月とすっぽんの差である。 管理人さんに「これはデボンじゃ見れないし、こんなうちデボンに立てたら誰も住まないと思う。だって、彼らはきっ とビクトリア調のうちに住みたいんだから。こんなのみたら醜い(アグリー)家だって言うと思う」と言ったら、彼は ちょっと笑ったあとで、マジメな顔をして「たしかにアグリーだよ」と言った。かれも英国人だと納得する。 さて、こりゃもしかしたらヒットかもしれない。 悪い点があるとすれば、さっきの落ち葉並木とはちょっと違い、町が若く雑然としていることだろうか? 管理人さんと受付の場所に戻ってくると、ラジが待っていたので車にのって引き返すことにする。 わたしには翌日アポイントメントをとっている別の不動産屋さんもいることなので、もちろんココではあまり良い顔を せず、自分がなぜ学校に行くか日本に帰るか考えている件を四方山話調に喋っていると、ラジは不動産屋さんらしくと 言うかなんと言うか、とても興味を示しはじめた。そしてまた非常に不動産屋さんらしく、さっきは無いといったのに、 「あさってまでには空きを見つける。間違いない」 なんて言い出したからおもしろくなってきた。 「え?無いんじゃないの?」 「充分(プレンティー)あるよ!」 日本で言う2LDKである2ベッドルーム750ポンドも含めての話なのだが、とりあえず次の約束をして別れる。 「あんたは、英国に残るべきだよ!(ほとんど友達モード。これまたラシイ話ですね)」 う〜む、意外なところで説得を受ける。 巨大マンションだから、彼が見つけてくる位置や階などで気に入るかどうかもわからないのだし、2ベッドになった ら一部屋余ってしまうことになるなどと、もうその巨大マンションに住むモードになってバスにのる。 さて、翌日学校の入学許可と書類をもらったときに、その巨大マンションの話と値段を言えば、「その値段の家に 住まれるのは、うらやましい話ですが、場所と間取りを考えると安いとおもう」という評価を受ける。ちなみにこの 学校の事務をされている方はほんとうに聞き上手な人であり、どの道にもプロというのは存在するものだといつも 感心する。今回は、ロンドンの住宅事情などについてもかなりお聞きして、大変参考になった。 あと、学校の校舎は2箇所にあり、チャールトンに住んでいてもバスを使う可能性が高いという話だったことから、 ウールウイッチに住むからといってあまり障害にはならないということもわかったので、いよいよ楽しみになって くる。 午後にはネットで予約した不動産屋さんに行く。ロンドン郊外の事務所に地下鉄と電車を乗り継いで行くと、事務所 のある場所にはショッピングモールなどもあり、ロンドンの中心部とはまったく違った様相を示してる。ちなみに、 巨大マンションのあるあたりもモールがたちならんでいて、生活にはとても便利という印象を受けていた。 彼の車にのって、チャールトンに向かう。 この時点で、ラジにかなり好感をもっていたので、残念ながらこちらは対象比較のための見学のようなつもりになっ ていた。案内された一件目は、なんと学校の目の前にあるぼろい家。築後150年から経っているようにすら見える。 これは冗談ではなく、多く見かけるビクトリア調の家はビクトリア時代というのが19世記であることを考えても、 まさに100年たっているのだ。だから、ビクトリア調より古そうに見える家は、それよりも古くてもおかしくは 無い。ペイントトンでも100年のうちなどざらで、初めに紹介された家も100年ものだった。 で、その2ベッドルームの家が700ポンドだった。「興味あるねぇ」といって、メモは書いたが自分のなかでは 論外といえた。 そして、次の家というから、車にのって走っているとウールウイッチに向かっている。 ありゃま、もしかして... まさにそのもしかしてで、なんと巨大マンションの入口にやってきた。 私は「今日ロンドンについた」ことになっていたから、管理人さんと知り合いなのはマズイのである。 不動産屋さんの後ろをそーーっと歩き、管理人さんのジョージと目が合う前に、口の前に人差し指を一本持って行っ て「し〜〜〜」というポーズをする。彼はすぐ納得してくれて、私のことを知らないふりをしてくれた。 その不動産屋さんに紹介してもらうはずの部屋の鍵はなぜかなく、他の部屋を見せてもらう。何度見てもこれは大変 格好の良い家だ。今連れてきてもらっている不動産屋さんには悪いが、翌日のアポイントより先にラジにあい、進捗 を聞く事を考え始めていた。管理人さんも、この不動産屋さんのことは知らないらしく、昨日ラジが来たときと対応 がまったく違ってとても邪険に見えた。どうもラジとはかなりの顔見知りらしい。それなら、不動産屋としてもラジ のほうが任せやすくなる。 さて、不動産屋の彼と一緒に車にもどってみると、目の前にメルセデスのAクラスが! ラジの車じゃないか? ま、ばれたとて家を見るのに競合させるのはあたりまえだから、あとで何とでも言ってやろうくらいの気持ちで車に のる。不動産屋さんも、わたしがあまりやる気がないのがわかったのか「この後予定がはいってるので急ぐんだけど まだ他の見る?もう一つのは今までより良くない」なんて言い出したので、あの150年より良くないのをもみても しょうがないし、なにしろ心はラジのほうにあるわけだから、「じゃ、学校の前でおろして。ありがとう。また、 メールしますね」などといって別れる。申し訳なかったが、結局経験としてみたのは150年ものだけだった。 降ろしてもらってしばらく学校へ行くべきか、ラジのところに行くべきか悩んでうろうろしていたら、なんと後ろ からメルセデスのAクラスがやってきた。ラジである。急停車して窓を開けた。 「どこいくの?」 「あなたの事務所に。乗っていい?」 ラジ曰く、巨大マンションの件の首尾はうまくいって無いという。「なんや、プレンティーとちゃうんかいな?」と 少々失望したが、こちらも後ろめたい気持ちがあるからぐずぐずしていると、 「ところで、一件エエのが出た。750のところを700で。とっても良い大家の1ベッド。場所は君の学校の  2つの校舎の真ん中にあって、ロケーション最高で、即入居可能。どう?」 これやから不動産屋さんはかなわん!とりあえず、見せてもらうことにした。 さきの150年より50年ほど若いように見える。 大家さんはインド系の人でとても感じがよいし、内装も新しくなっていて巨大マンションより良いものもかなりある。 ここでまたラジが不動産屋さんらしく「この物件は4時までに決めてもらわないと駄目。」などというから、悩み はじめた。不動産屋さんの口だとわかっていても、やはりそういわれると悩む。彼は、「じゃ、一杯やりながら考え る?」といって、わたしをパブに誘った。半パイントのギネスを2つ買って、彼もそれをすすりながら話をする。 「いったい帰ってなにやるの?」 「イギリスにいたらいろんな経験ができるよ」 「仕事だってなにが待ってるかわからない」 「オーストラリアで資格とるよりイギリスの資格の方がココでは役に立つよ(あたりまえでしょ!)」 彼もインド人だが英国に生まれたあと、香港に渡って仕事をしかなり楽しんでいたが、家族に呼び戻されて帰国。 その後、香港にいたほうが良かったかなと思ったりすることが多いという。 不動産屋さんの口だとひたすら自分に言い聞かせながらも、このインド人がなぜここまで「英国に残れ」というのか がとても面白かった。彼にしてみれば、もっと分の良い営業が一杯あるに違いないのだ。たとえ、私との契約を取っ たとしても、手数料はわずかに10%ちょっと。つまり100ポンドにもならない。日本なら大抵1月分とるから、 これもどえらい差である。(わたしはおそらく家賃の中にも手数料が含まれていて、一定のものが入ると思っている のだが。たとえば、今わたしが住んでいるペイントンの家は、契約時の手数料すらなかったのだから。) それに彼にしてみれば、わたしが巨大マンションを選択すれば、「充分あるよ」といった手前、物件をみつけてこな ければならないのだから、ややこしい話を抱えることにもなるのだ。 ギネスを飲み終わり、「かれもSEの仕事をしていた」などというホントかウソかわからない話まで聞いたあと、 「じゃ、あの巨大マンション(VISTAといいます)に部屋を見つけてちょうだい。できれば窓からマンションの  外が見える部屋が良い。(つまり外側ですね)それなら2ベッドの750でも出すよ」 「それなら手付けを350ポンド払って。見つけられなかったら返すから。領収書にもちゃんと書いとくよ」 と、いうわけで、350ポンド払って彼に任せることにした。 彼とわかれる間際に入った連絡では、5階のテームズ川が展望できる部屋が700ポンド。家具駐車スペース付き。 ただし、入居は12月... ビザの関係もあって、早く契約をしないとビザを取る事ができなくなる。ラジはその辺もよく心得ていて、証明書は 出せるという。このあたりもう少し研究が必要なようである。あしたまた学校にいって、そのあたりの微妙なところ を相談してこよう。このあと2回引っ越す事になるかもしれないが、郊外とはいえ、テームズ川を眺めるマンション 生活なんてのは、ちょっと考えもつかないようなたのしげな話ではないか! と、いうわけで、巨大マンションについてはまだ本きまりではないものの、なんとなく来年の英国滞在のほうは見え てきたようだ。人間万事塞翁が馬というが、今度の件で一番活躍したのは、まだあってたった2日のインド人の不動 産屋さんだった。彼は先にも書いたとおり、物件のことを何とかしようとしたのだとは思うにせよ、事情をしった上 で、ロンドンに残るという案について一生懸命支持してくれたのである。 実をいうと彼やもう一人の不動産屋さんや、管理人さんと話をしていて、最近英語がさっぱり進歩しないと落ち込ん でいたのに、「不動産屋と掛け合って家の交渉をしている」自分に気がつき、愉快になってきたというのもある。 ニュース見ててあまりわからなくても良いじゃないか。日本のニュースだって、難しい言葉を喋っているから、実際 少々の日本語知識じゃちゃんとわからないものだ!逆に列車事故みたいなニュースなら、寝ぼけ眼でラジオを聴いて いても理解できたのだ。電話で話せなくても、メールならやりとりもできるのだし! 秋のどんよりとした雲の下で、最近落ち込み気味だった気分が少しずつ晴れ始めた。 明日もまた面白いことが待っているに違いない。 (と、いうわけでまたかなり楽しくなってきました。)


2004年11月10日より11月14日まで


わたしがロンドンに住む事に決めた理由が2つある。 一つ目は、ロンドン南東部に位置する、Charlton (チャールトン)と呼ばれる地域を気に入ってしまったこと。 わたしの通うことになる教室の一つが、こんな公園の中にあるのである。 今度行く日本人教師養成学校については、ネットでいろいろ調べる限り、まぁ良いに付け悪いにつけいろいろな噂が ある学校である。専用の掲示板まで作られて批判が書き込まれているページまである。 なにしろ学費がかなり高いために、期待もその分大きくなって不満も一杯でるのだろうと今のところは思っている。 1年間で130万円、教材実習用交通費を除くであるから、期待しないほうがおかしいだろう。しかし、残念な事に、 人の期待や欲望というものは、完璧に合うことの方が希なのだ。それさえ「信じて」いれば、1月からの学校も楽しい ものになるだろう。要するに心がけ次第だろうと思う。(たしかに垣間見る設備には、すでに若干の疑問をもったり してはいるのですが、なにせロンドンですから、それもしょうがないとも思えてくるのです。あれをいきなり日本から 来て、あの学費との対比を考えると、「それは高いやろ!!」と思う人が圧倒的だろうと思います。) さて、もうひとつの理由が、不動産屋ラジの「ロンドンに残れよ!」というせりふだった。 そして、部屋が沢山あるという、Woolwich (ウールイッチ)のマンションで、川を眺めながらの生活というのもおも しろそうだと思ったからである。 ところがどっこいそうは簡単にはいかない。 やはり、充分な部屋数などなく、川の見える部屋はすでに商談中で、結局サヨナラとなってしまったのである。 ほら言わんこっちゃない!不動産屋を信じるほど馬鹿なものは無い。どうせ、別の部屋を見せられて「これは良い!」 などと持ち上げられ、それに住む事になるんだわさ...と、思ってみたものの、こちらとてそう簡単に引き下がる わけにはいかない。不動産屋としてのラジは信用ができないが、彼がいろいろ言ったロンドンに残れの理由については 大変参考になったのだ。ここは一つその点を挙げて、彼にできるだけの協力をしてもらおう。彼そのもののおもしろさ がなければ、あの返還可能という前払い金も払ってはいなかった。 さて、そこで考えたのが、彼と彼の息子にプレゼントをしておけば、少々まともに動いてくれるだろうというものだっ た。本当に悪徳なのなら、そんなことでは動きはしないだろうが、わたしは彼がそこまで悪徳だとは思えないのである。 彼のオフィスにいって、ジンジャースナップスという安いがとても美味しいクッキーを一つ置き、事務所の人々に媚を 売っておく。また、彼と他の家を見に行っている時に、「これ息子さんに」といってコインの形のチョコレートをわた した。彼はとても喜んで、道の途中に家があるからといって、彼のビックリするくらい綺麗な嫁さんと息子さんを紹介 までしてくれた。 その家は、彼が前「自分もこの辺に住んでるから、ここは良い場所に間違いない」といった場所からはかなり離れて いるようにおもったが...ともかく、前金を渡している手前、少々不利な立場である以上、それをちょっとでも好転 させるように持って行かないと酷い目にあうこと間違いなしなのである。 彼のオフィスを離れるとき、「前金はおいていくから、あのマンションに川の見える部屋を見つけて頂戴。なんせ、 あんたはわたしの運命を変えた重要人物なんやからね」と言ってわかれる。これはもう愚かといわれようが何と言われ ようが、勝負である。どっちにしても不動産屋さんを通すことになる話だ。それなら、ほんの少しでも人としてかかわ りあった人の方が信用できるし、あきらめも付く。さっきの学校の話と同じような按配なわけだ。 最悪でもラジにどこかの家を見つけてもらって、住めば学校には行けるのだから、ひとまずは任せることにしよう。 さて、こうなってくると問題になるのが、この先どう暮らすかである。ラジの、「とりあえず、ロンドンに引っ越して おいで。ボクの家に泊めてあげても良いよ」という、誘いを断ってきたので、あとはペイントンの家になんとか住み つづけることを考えるか、すでに引越し用に予約してあるレンタカーで英国ジプシー暮らしをするかのいずれかになり そうだ。 ところで、ペイントンの家については、ラジに前受け金を払う段階で「来週」引越しできない場合を考え、彼に今の 不動産屋さんに電話で交渉してもらっていたのである。ここで感心したのは、こちらの不動産屋さんが、ラジからの 電話に対し、まず私が依頼したのなら、私を電話にだせといってセキュリティーチェックをしたことだ。わたしが英語 がさっぱりなのは、こちらの不動産屋さんは知っているのだが、ちゃんと確認するあたり、かなりしっかりしている と思った。 それはさておき、そのときの電話の様子では、今の部屋への滞在延長は難しいだろうと言う事だった。大家さんは、こ の家を売るに当たって、空屋にしておきたいらしいのである。 わたしとしては、できるだけジプシー生活は避けたいので、「そこを何とかして頂戴!わたしゃ今回の引越しの件では ミスばっかりしてます。わたしゃトーベイ(ペイントン一帯)が大好きです。水曜の晩にはいつもチャールストン・ コートで歌を歌ってました...」などと、不動産屋なり大家さんなりが喜びそうな文句を並べまくってメールを書き 送っておくことにした。 ペイントンに向かう列車は、まだ列車事故現場を迂回するため微妙にダイヤが狂っている。しかしながら、これといっ た大きな遅れもなく、我が家へと帰ってくることができた。扉を開けると、そこには日本からの郵便が来ているはず ...だったのだが、これが無い。どこを探してもないのである。 突然話しが変わって申し訳ないが、これは緊急事態だった。 なぜなら、その日本からの手紙には、わたしの銀行の残高証明が入っているはずだったのだ。銀行から一旦実家に届いた ものを、速達で転送してもらっていたからである。日数から考えて着いていないなどありえないのだ。 その書類がなければビザの申請もできず、再送してもらうには住所が必要になるわけで、ジプシー生活などできない事 になるのである。 これは大変なことになった。どうするか考える前に、まず先に不動産屋に出したメールに「滞在延長できます」という 返事が来ていること?を確認することにした。ところが、メールは来ていない。迷惑メールの嵐を掻き分けてみても、 どこにも不動産屋からのメールはなく、ロンドンのラジからメールが来ていたくらいだ。彼は自宅のメールアドレスまで 書いてきていた。ほんとどこまで「信じる」ことができる人物なのかまったくわからない。 さて、もうこうなったら、翌朝不動産屋にでかけて直接交渉しかない。メールが来ていないのは、「できません」とい う意味なのか、それともまだ処理していないのか、わからないではないか!だから、ここは一つ「うどん食って寝る」 に限るというわけだ。うどんはなかったが、焼きそばをロンドンで買ったので、それを食って寝ることにする。 翌朝、最近やっと晴れるようになった天気の中をバスに乗って不動産屋に向かう。前、この道を行き来したときから、 もう9ヶ月以上が過ぎているとは、まったく時の経つのは早い。Brixam (ブリクサム)という街の港の一角にその不動 産屋さんはある。潮の満ち引きが大きいこのあたりでは、港に停まっている船はいつも水に浮いているわけではない。 干潮時には、15m以上はあるような鉄製の漁船でも、赤い船底をあらわにして泥の上に着底している。この港にやって くると、満潮のときは普通の港だから面白く無い。この日は完全には引き切っていないものの、干潮であり、泥の上に 突き立つようにして「置いて」あるヨットを眺めながら不動産屋さんにたどり着いた。 中にはいると、お馴染みの顔の中に、引越しのときに来る事になっていたタニアの顔が見えた。 「あぁ、こんちは!今からメール見るところよ!」 おっと、第一段階クリアである。彼女はおそらく前日休みだったのだろう。まだ処理していなかったのだ。 わたしのメールを読み始めて、顔が曇り始めた。 「さて、駄目だとおもうけど。」 ここで言葉を発するより、メールをそのまま読んでもらったほうが、彼女にはわかってもらえるはずだから、悲惨そう な顔を作ってじっとしていると、彼女が電話をかけ始めた。大家さんにである。 「(前略)あの部屋に、12月半ばか、少なくともはじめまでいたいと言ってるの...駄目...そう...でも、  まだ広告も出してないんじゃなかった?うん...うん...わかりました。」 明らかにはじめは駄目といったようだが、どうも話の展開が変ったように思えた。 タニアは、「もうこれが3回目だからといって(実際この延長は3回目なのだ)駄目だっていったのよ。でも彼女(大 家さん)はとてもいい人なの。だから結局「いいわ」ということになった。」と説明してくれた。 これほどほっとした事は最近なかった。もう、心の中が今日の天気のように晴れ渡るのを感じた。 さっそく、持ってきていた、またしてもジンジャースナップスを渡し、「みなさんでどうぞ」のようなことを言う。 タニアは「ご親切にありがとう」といって、奥に持って入ってしまった。 大家さんにも持ってきていたが、もうちょっとマシなものを、この家を離れるときに何か置いていったほうが良いように 思えてきたので、ことづけるのはやめることにする。 あぁ、本当に良かった!! 港の道を神様に感謝しながら、行きがけより10倍くらい軽くなった足取りで帰途についたのである。 来週水曜日もまた、パブで歌っているのかもしれない。 (と、いうわけで、信じなければいけないものが多くてこまりますが、疑ってばかりの生活よりはきっと楽しいよう  に思います。次回このページでその辺がどう変るか、はたまた同じ按配なのか、そのあたりが自分でも楽しみです)


2004年11月15日より11月30日まで


ロンドンの家が決まった。 と、本当に信じていいのかまだ良くわからない...なんて書いていることをラジが知ったら怒るだろうなと思うが。 ともかく契約書ももらったし、お金も敷金一月分と手数料85ポンドと家賃一月分を納めてきたし、その文面を元にビザ の延長申請もし、見事再来年の2月までイギリスに滞在可能になったのだから、決まったことは間違いなさそうだ。 しかし、最後の最後まで神様が「ほんまにエエのか?おまえ...」言ってるようなことばかり起こったのである。 ラジから「川の見える部屋が見つかった!」とメールがあったのは、彼とわかれた次の週の水曜日だった。 帰ってきてから、本当にラジは見つけてくれるものか心配で、「もし川が見える部屋を見つけることが難しいと思ったら、 すぐにメールしてちょうだい」などとメールを書いていたので、またしても信じられない思いだった。 部屋は目をつけていた Woolwich のマンションの日本で言う6階つまり英国でいう5階にあり、テームズ川をほんの少し ばかり眺めることができる位置になる。なにより、窓から外を見た時、見下ろされるポジションに家が無いのが魅力だ。 いままで住んだ部屋は、すべて窓を開ければ前の家が見えたのだから。 ロンドンの南東部に位置し、テームズ側を見ることができるということは、窓は北東方向についていることになる。 1ベッドルームといわれる日本で言う1LDK。電気ですべてをまかなう仕組みは今住んでいるアパートと同じである。 さて、そうなると善は急げと考えて、翌週の木曜11月25日に早速出かけて契約することにした。翌26日にはビザの 延長申請登録を当日行ってくれる役所に出かける予約も入れる。大不得意である電話をホームオフィスといわれる移民局 にかけて、アポイントメント番号(予約番号ですね)をとる。これも、ホームページを一生懸命検索した結果だ。 ちょっと話はずれるが、英国の学生ビザの仕組みについて書いておこうと思う。 日本から英国に留学する場合、6ヶ月以上滞在が決まっている時は、ビザの事前申請が必要になる。それ以内なら、観光 ビザで入国することが可能だ。どう文献をひっくり返してみても、学校が要求しないかぎり、6ヶ月以内ならビザなしで 勉強して差し支えないと思われる。 ところがである。もし、突然気が変わって6ヶ月以上勉強したいという事になった時、話が面倒になる。 取り決め上は、「滞在許可の変更は認めません」と書いてあるのだ。観光目的で入国し、6ヶ月を過ごしたあと「学生」 での滞在は基本的に認められないのである。ややこしいことに、「6ヶ月以内の短期学生として入国した場合、現地で 延長申請ができます」とは記されているので、入国時あるいは入国前に「短期学生」としてビザを申請することができる のかもしれない。もうしわけないが、ここについてはあまり良くわからない。 さて、このページを長くごらんになっていただいている方は、何かおかしい?と感じられるのではないだろうか? そう、わたしはまさに「観光目的で入国し、学生ビザに切り替えた」のである。 前述の仕組みが有効になったのは2003年11月13日であるから、私は入国時からずっとこのきまりの縛りを受けて いることになる。つまり、わたしが延長申請を出し、かつ認められたのは特例ということになるかもしれない。 何事もさじかげんなのである。 よく、6ヶ月経過したら一度国をでて、また帰ってきて滞在すればよいという話を聞く。これも、きまりから行けば問題 になるので、「当然できる」話ではないことを知っておく必要がある。逆に言えば、きまりがある以上「拒否」される方 が当然なのだ。そのあたり、日本人だから認められやすいものやら、まったくのさじかげんなのやらわからない。 今回の話に戻そう。 わたしは、前回と違い学生ビザを持っているので、書類さえそろえば問題なく延長申請できる立場だった。 ところがちょうど引越しの時期にかかってしまったので、話がややこしくなる。 学生ビザの申請には、学校の期間が銘記された入学承認証、住む場所の契約書、そして滞在に充分な資金があるかどうか を証明する書類が必要になる。延長の場合はこれに、通っていた学校の成績や出欠についての書面がさらに必要だ。 わたしの場合、ちゃんと学校に行っていたし、8ヶ月も通って「中級」から「中の上」に格上げされただけの「修了証書」 をもらっていたから、最後の書面は問題ない。ラジに言われて日本語教師養成学校の学費も払っており、入学承認証にも 来年の12月までという日付が入っている。と、いうことは、あと必要な書類といえば、住む場所の契約書なのである。 つまり、ビザを申請するためには、どこに住むのかを申請書に書き込み、契約書をみせないといけないのだ。 まだ家を探している段階では、ビザの延長申請をすることができないのである。 ただし、これは確認していないのでよくわからないのだが、もしかするとロンドンの学校にいくにしても、ペイントンの 家の契約書を提出すれば認められたかもしれない。その辺のルールがよくわからないので本当に困る。 さて、通常のビザの延長申請には、通常審査で155ポンドの料金がかかる。この申請に要する期間が、数週間といわれ、 前回の私の場合大体1月ほどかかった。これはおそらく「通常認められない」申請だったからかもしれない。ところで、 もし、ビザの申請中に滞在期間が切れてしまっても、それは問題ない。ビザ申請中の延長滞在は合法なのである。 上記のような条件のもとでビザの申請をする場合、引越し途上であるからどこに送ってもらえばよいかわからないとか、 もしかしたら年末帰国を予定している日を過ぎてしまわないかとか、いろいろややこしい問題が出てくる。 そういう人のために、ホームオフィスに直接行って、250ポンド!払えば、書類に問題ない場合当日に交付されるとい う制度があるのだ。 説明が長くなったが、今回その制度を利用してビザ延長申請をするために、ホームオフィスに電話をかけて、予約番号を 取得したという次第なのである。 予約番号を持っていなくても、現地で並べば申請を受け付けてくれる可能性があるとホームページには書いてあったが、 電話を書ければ予約番号をくれるというのなら、少々勇気を奮って電話をかけたほうが良いに決まっている。 また、本当に訳がわからなくなれば、相手は移民局なのだし、日本語のわかる人に代わってもらえば良いと思ったのだ。 幸いにして、予約のための電話は、はじめの自動応答による部門選択で戸惑った以外はほとんど問題なく理解でき、無事 予約番号と予約時間を取得することができたのである。それが、契約の翌日の2時、ホームオフィスのあるロンドン郊外の クロイドンに行くというものだった。 契約の翌日ということは、つまり、ラジのいう物件を契約しないと、翌日の予約もパーということになる。 マンションの部屋は何度か見たので雰囲気は良くわかっているから、もしラジのいう部屋が本当にあのマンションにある のなら??、契約して問題ないと思ったのだ。 さて、部屋の契約にラジが必要だといってきたものは次のとおりである。 学校の入学許可書、銀行の残高証明、そして今住んでいる家主からのリファレンス(身元証明みたいなもの)だ。 前の二つは丁度ビザの申請に必要だから持っているから、残りのリファレンスについて、不動産屋に問い合わせることに なる。不動産屋にいってみると、家主はデボンの人ではないそうで、簡単には手に入らないから、担当のタニアが書いて くれるというので任せることにした。作成してくれたワープロにサインしたものでは、もしかすると証明として相手が 認めてくれないかもしれないからと、「そういう時には連絡して」といって名刺をくれる。みなさん親切な人たちだ。 ちなみに証明の内容をみると、「とどこおりなく家賃を払った」とか「問題をおこしてない」などという文が並んでいた。 不安だったので、その文面をデジカメで撮影しラジにメールで送って確認を取る。ラジから返事か返ってきて、それでOK だという事だった。これで、集めなければならないものはすべてそろった事になる。 カードの払いができないということなので、CITIバンクのカードを使って、転送制限があるため現金を数日に分けて 引き出し、支払いの準備も整った。あとは、ラジのところへ出かけるだけである。 木曜日に予約を取ったというのには、リファレンスをもらう為の時間を稼いだのと、水曜のパブに出かけるという意味とが 両方あった。ちょうど日本から知り合いが英国へ来るというので、水曜日ならちょっと希な体験ができると伝えると、その 日にあわせてやってきた。 本当にラジは信用できる人物なのか?銭を出した瞬間、ラジならぬ拉致されないか?契約する部屋は本当にあのマンション なのか?とか、不安でしょうがなかったので、水曜日のパブや、知り合いの来訪はとてもよい気晴らしになった。 そういう意味ではこの話にも「良い巡り」というのは存在しているのである。 翌朝、列車の大事故から復旧した鉄道に乗って、次の旅程へと向かう知り合いと共にロンドンにでかけた。 パディントンで別れ、一人なじみのホテルへチェックインし、荷物を簡単にしてからラジの不動産屋へ行く。 ラジは部屋に連れて行ってくれるという。まずはほっとする。マンションそのものは騙されていないようだ。 マンションに行ってみると、管理人のジョージ曰く、「あの部屋は鍵を落としたとかいって、丁度鍵を変更したところだ から、もしかしたら合鍵が合わないかもしれない」と言い出す。行ってみると、たしかに部屋は開かなかった。 ほら見たことか!またしてもこんな按配だ!! ジョージとラジは「こりゃ、合鍵もないとは一番安全な部屋だわ」なんて言っている。まだそこに住んでいる女性は、でか けているらしく、なんど部屋をノックしてもでてこない。ラジは鍵の件を手紙を書いてポストに入れた。その日中に帰って きたら見ることができるかもしれないからだ。 ラジは「まったく、今日は3度も鍵の話をした結果これだよ!」なんてぼやいてる。 これも良くわからないところなのだが、ラジはチャールトン駅前の Lloyd Jones という不動産屋にいる人物だ。ところが、 この不動産を管理しているのはアンバーなる別の不動産屋なのである。ラジ曰く「自分の物件じゃないから取り分が少なく なるんだ」なんて言ってるが、彼に元々払うのは60ポンドの手数料と25ポンドのファイル管理費だけなのだ。 ややこしい取引をして日本円で1万円ちょっとの手数料をさらに削られて、商売やっていけるものだろうか? その辺立ち話で聴いてみたが、詳しいところは理解できなかった。 さて、同じ面にある部屋を見せてもらって「川が見える」ことを確認し、「申し訳ないがこれで良い?」というので、私も 同意することにする。ラジ一人なら騙しもありえるが、ジョージはれっきとした管理人であり、ラジといっしょに行かなく てもいつも管理人席に座っているのだから、彼と組んで悪いことをしているとは思えないからだ。 事務所に帰ってきて、契約書にサインする。もちろんとりあえず内容を読む。延滞の時はこうしろとか、5ヶ月後に解約が 可能になるとか、そういった内容だ。契約は1年である。この間条件の変更は無いが、延長についてはまた話し合いという ことになる。賃料があがったりもするらしいと、日本からもってきたガイドブックには書いてあった。 ボイラーが壊れたら誰がなおす?とか、気になることをラジに質問してから、契約書にサインする。 「敷金は家主が保持する」という項目を別に書き込んだので、そこに手書きのサインをする。 家主のサインというところにはラジがサインした。ほんまそれでええのかいな?と考えたが、考えてみれば今の家も家主の サインは不動産屋さんだったし、サイン欄には By or for Landlord (家主あるいは家主の為)とある。 お金を払うために枚数を数え始めると、ラジがとなりの部屋に来るようにいった。無用心だということらしい。 お金を渡し、領収書を受け取る。 ついに家のサインをしてしまった!と、思った時に電話がなった。アンバーなる「本当」の不動産屋である。 どうも契約書にある家主の名前が違うという事らしい。「Mr. M PEERS」が「Mr. N PEERS」なのだ そうで、これを全部手書きでなおす。また、郵便番号が契約書に入ってなかったので質問すると、ラジが電話で確認してく れてこれも手書きで書き込んだ。3部ある契約書(家主、不動産屋、私用)にそれぞれ訂正箇所としてサインをする。ラジも もちろんサインする。 やっと終わった!ラジと握手をして、12月15日木曜日朝にこの事務所で会う約束をして別れる。 駄目押しではないが、ペイントンから持ってきた菓子を、ラジと事務所の人々のために2つ渡す。 少なくとも店を構えている不動産屋の契約書をもらったし、この文書は翌日のビザの申請にも使うことになるわけだから、 12月15日に知らんふりをされることは無いだろうと思う。店を出たあと、もう一度マンションに向かい、ジョージの所 へいって、「12月15日に引っ越します」といって握手をしてきた。菓子はもうなかったのでわたせなかったが。 ホテルに帰ってきて、ビザの申請書類を確認し始めた。すると、とんでもないものが無いことに気がつく! さっきもらったはずの領収書だ。どこをひっくり返しても無いのである。どうも不動産屋に忘れてきたらしい。 考えてみれば、あのミックとニック(MとN)が違ったという件で、サインしまくっている時に、まぎれてしまったらしい。 さぁ困った!もう8時を回っていて、不動産屋は閉まっている。ラジの携帯に電話したが、留守電になってる。 暗澹とした気分になる。あの領収書がなければ、現金払いなのだから、ラジと不動産屋がとぼければ、わたしは銭を一銭も 払ってないことにだってできるのだ。それは常識として、契約書をもちかつ、「敷金は家主が保管」などという一筆も入って いるのだから、払ったことを主張はできるだろうが、「ビザのためにわたした」とか、なんとでも言い様はあるだろう。 そうなってくると、あの「MとN」の件も一芝居で混乱させて、領収書を奪うための作戦だったのではなどと思えてくる。 なにせバタバタとサインしたのだから... 愚かをとおりこして、もう言葉も出したくなかった。あんなに警戒していて、何をやっていることやら... しかし、連絡がつかない以上、どうしようもない。とりあえず翌朝訪問することをラジにメールして、あとはウインドウズに 付属のゲームなどをして気を紛らわせているうちに眠たくなったので寝た。もう、ここまでくれば開き直るしかないわけだ。 翌朝、9時30分までに買うと1ポンド高い1日地下鉄バス乗車券を5.3ポンド(9時30分以降なら4.3ポンド)で 買い、地下鉄とバスを乗り継いで、チャールトンにまたやってきた。10時ちょっと前に不動産屋の前に立つが、ラジの姿は 見えない。 「ラジいますか?」 「いいえ、彼は今日きません」と、いつも応対してくれる女性がいう。 ゲッ!これはやられたかもしれん! 「あの〜、領収書を持ってくるのを忘れたんですが...」 「なくしたんですか?わたし作りましたが。」(この発言にちょっと安心!) 「いや、持ってくるのを忘れたんです。ここから...」 「デスクに置き忘れたとか?」 「そうです。」 「ちょっと、まってくださいね。」 店にいた二人の女性がラジの机の周りを探し始める。机の上にはまだ昨日やりとりしていたファイルがのっていた。 それを覗いた一人が、「これじゃないですか?」と、持って来てくれたのは、まさに裏にラジが明細を手書きで書いてくれた 私宛の領収書そのものだった。払った額もラジのサインも、もちろんそのままである。 足が崩れそうになった。あまり疑うのも大概にしないといけないかもしれない。自分の愚かをラジに転嫁しているだけなの だろうと思う。しかし、あまりにも馬鹿なことが多すぎる。 昔から幽霊を見る人は、怖い怖いと思って夜道を行くから、ちょっとしたススキの揺れるのも幽霊に見えてしまうという。 それにしてもここまでいろいろ書いてきた「神様の思し召し?」は、いったい何なのだろう? もし、神様が「ロンドンに来てはいけない」といっておられるのなら、学校の入学金を払った時点でもうどうしようもないの だから、それ以上の「思し召し」を見せられるとは思わない。「あのマンションに住んではいけない」なら、領収書を忘れた 一件は説明がつかない。これらはわたしがただの小心で幽霊が怖かっただけの話なのだろうか?? どうせチャールトンに来たのだから、学校を訪ねて「銀行口座を開くための紹介証」を作ってもらう。英国では我々外人が 銀行口座を開くことがテロが頻発して以降、難しくなっているそうだ。だから、いままでトライすらしなかったのだが、今回 家賃の支払いなどでややこしい思いをしたくないので、開けるものなら開こうと思ったのである。 学校でもらった証書をもって、指定の銀行にやってきたが、金曜の午後だったからか人であふれかえっていた。ビザの取得に クロイドンにでかけなければならないので、しばらく待ったが退散する事にする。口座開設は引っ越してからでも良いだろう。 クロイドンにはビクトリア駅から電車に乗って行く。切符売り場は大変な混雑で、自動販売機を使うことにする。往復を指定 すると、「現在仕えませんので切符売り場にお問い合わせください」なるメッセージがでる。仕方がないので片道を指定する と、今度は見事に買うことができた。これはさすがに「思し召し」の類だとは思わなかった。なぜなら電車の時間が迫ってお り、買えた事のほうがうれしかったからである。 驚くほどゆっくりとした速度の電車にのって、クロイドン西駅につく。そこは準備万端としたもので、ホームオフィスまでの 地図を印刷してもっていたので、2時の待ち合わせに13時40分着の電車はちょうど良かったはずなのだが、駅を出た時の 印象が思っていたものとはまったく違うものだったこともあって、迷ってしまった。ロンドンなら普通あちこちに表示されて いるはずの「何々ストリート」とかいった表示がまったく見当たらないのだ。大体の見当をつけて歩き始め、ストリートの 表示がでるところまで行こうとする。やっとバス停を見つけたが、該当の場所が地図に出ていないようにおもう。同じような 地名を見つけたので、それを頼りに方向を決めて歩き始めたら、地獄に仏とばかりに警官が歩いてきた。これは助かった。 早速呼び止め、地図を示して自分の場所とホームオフィスの場所を教えてもらった。今日はなかなか、ありがたいことが多い。 ホームオフィスに着くと、沢山の人が並んでいるのが見える。こちとら予約番号を持っているのだから安心だと思って、行く べき場所を探すがわからない。とりあえず、並んでいるところにいって、これまた掲示を探すがみあたらない。「予約すると ならばなくて済みます」というテレビを使った掲示があちこちにでているだけだ。 「予約をすると並ばずに済むなら、自分がここにいるのはおかしいわな」 と、考えて、もう一度正面玄関に行ってみると、案内表示の下のほうに小さく、「予約の方はこちら」と表示がでていた。 矢印にそって歩くと、裏口のような場所に係員が立っていて、予約があることを言うと入れてもらうことができた。 そこで行列している人と、予約の人を混ぜて入場させているようだった。なにか優越感のようなものを感じながら建物に入る。 おきまりの荷物検査を経て、いよいよ審査開始である。 まず、書類がそろっているかどうかを審査される。2列にならんで、幾つかある受付の空くのを待つ。やがて自分の番がきて、 ガラス越しに係官と対面し、書類をガラスのしたからわたす。何か言われるが、なにを言っているのかよくわからない。逆に その時点では何をされているのか良くわかっていないので、「引越しするから住所がどうなるかわからないので、ここにきま した」なんてぼそぼそ言ってると、「もっと大きな声で言って!」などといわれる。その言葉も「え?」と一度聞き返して わかったくらいだから、先が思いやられる。ここで受付番号を聞かれる。 ざっと提出した書類に目をとおした後、「支払える状態にある」という項目にチェックを入れ、受付番号を記入した伝票が、 またガラスのしたから返ってきた。 「次は1階(つまり2階です。以下略)に行って支払いを済ませてください。その後2階にいって、審査を受けてください」 というようなことを言われた。ありがとうといって、上の階に向かう。支払いはなぜか現金では受け付けてもらえない。 小切手か以前書いたポスタルオーダーか、あるいはカードである。私はもちろんカードを示し、250ポンドという大金を 支払った。そしてもう一つ上の階に行くとイスがずらっとならんでいて、みんな審査を待っている。 予約の時間を40分ほど過ぎた頃、「何番の方は19番にどうぞ」という放送があった。この放送は30ほどある審査受付窓 口のそれぞれの担当官が放送するのだが、中には本当にわかりにくい放送もあって、よくよく注意していないと間違えそうな ものである。2番の放送はハウリングがきつくて、うるさかったりもする。電光掲示なんかも検討すべきでは無いか? さて、19番に行くと、書類をみんな渡すようにいわれる。何を聞かれるかと思ったが、ほとんど何もきかれず、引越しする からという件で新しい住所がロンドンのほうだというのと、証明書を見ながら「銀行はここを使ってるんだね?」と言ったよ うに思ったので、「そう。シティバンク」と答えたら、何も言わなかったからそれでよかったのだろう。 程なく、書類がパスポートと写真以外ガラスの下から返ってきた。写真についてはまた馬鹿話があるのだが、それは次回とい うことにしよう。 「最低2時間かかります。今3時15分ですが、16時には表の門が閉まるので出かけるならそれまでに帰ってきてください」 と、いうことはビザはこの日に手に入りそうだ。朝からのバタバタで昼飯もなにも食べてなかったことを思い出し、急にお腹 がすいて来る。まだ並んでいる人を横目に見ながらホームオフィスを出て、近くのマクドナルドに駆け込みサッと食べて、 2時間待つ時のためのジュースを1本買ってから、駅に行き電車の時間を確かめる。パディントン発19時3分を予約している から、18時前の電車が捕まえられれば充分だ。電車は問題なくあるようである。 ホームオフィスに帰ってきて、また荷物チェックを受けてから、今度は予約番号が書き込まれた伝票を示すと、はじめの受付 のために私も並んだ行列の脇を通してくれて、上の申請を受ける階まで上がって待つことになる。荷物チェックのところで、 100円ライターがチェックにひっかかり預かってもらっていた人が、ライターを返してもらっていた。なかなか厳重だ。 2時間を少し過ぎた17時30分過ぎに番号が呼ばれ、「すみません、遅くなりました」という言葉と共に、無事新しいビザの 張り付いたパスポートが返ってきた。有効期限は2006年2月。今度の目的には充分な期間である。 ビザも受け取ったことだし、12月15日の引越しまでしばらくあるので、大陸に知り合いを訪ねることを考え始めた。 スイス国境あたりのフランスに元同僚、スイスはチューリッヒに中学の同級生が住んでいる。フランスはもう引き払うという事 なので、今のうちに行っておかねばならない。早速連絡をとって、旅行計画を開始。3日にロンドンを経って7日に帰ってくる 強行軍を予約した。面白いたびになって欲しい。 フランスは山の中で、既にマイナスの気温だという。はじめは秋の装いを着込んででかけようかと思っていたが、ネットでその 話をした人にたしなめられ、7割引で21ポンド!という羽毛系のジャケットを買って来た。着て夜の町を試しに歩いてみたら、 驚くほど暖かい。人の話は素直に聞くものだと、しみじみ思う。 チューリッヒの同級生とも連絡がとれ、いろいろな事を教えてもらう。感謝!! 旅行気分が盛り上がってきた!!天気が良かったらなぁと思う。 さて、今回のお話はこのあたりでオシマイである。 最後にラジのことを言えば、彼はここまで何かの脚本でもあるようなドタバタ劇の主役のひとりだ。 もしかすると、12月15日にまた何かあるかもしれない。 しかし、ひとまずビザを取得できたので、もしこの件が大詐欺事件だったとしても、来年学校には行けるし、家のほうは学校に 依頼してなんとかしてもらえると思うし、来年は英国で裁判の一つも経験できるといった程度?のことになった。 はじめにも書いたとおり、こんなことを書いていることをラジが知ったらどう思うか... ややこしい依頼を見事にこなして、部屋を見つけてくれたのだし、英国の滞在延長をきめさせてくれた人なのだから、本当は もしかするとかなりの恩人なのである。ただ、事があまりにおかしなことばかりあるから...今のところ、こんな調子なのは しょうがないではないか。許して頂戴!ラジ!! ラジに、「引っ越したらBearを飲みに行こう」とメールしたら、「是非Beerを飲みにいきましょう」という返事が来た。 Bearは熊であり、Beerは「ビール」である。 こんな調子で英国暮らしが2年目をもうすぐ迎えようとしている。 神様が「やめとけば?」と言っているのは、あたりまえのことなのかもしれない。 (次回は、スイス旅行の話を書くつもりでおります。)


2004年12月1日より12月3日まで



シャモニー・チューリッヒ紀行に出発しました。
そちらもよろしくお願いします。


2004年12月4日より12月13日まで


この文章は、もうペイントンを去って2月以上が過ぎた日に、ロンドンで書いている。 つまり、昨年の12月の始めに、ラジなどを巻きこんですったもんだした話はすべてうまく行き、今は日本語教師養成学校 の学生として、楽しくそして忙しい日々を過ごしている。 ラジが世話をしてくれた家は、ほんとうにすばらしく、高い家賃も1年限りと割り切れば満足できる。夜には、テームズ川 を見下ろしながらの夜景を楽しんでいる。そこにヤマハのポータブルキーボードを中古で買ってきて置き、毎日のように 景色を眺めながら讃美歌を弾いては悦にいっているという按配だ。自分としてもかなり贅沢をしていると思う。 しかし、なにもかも良いことばかりではなく、ラジに言われた学生ということでのカウンシルタックス(一種の地区住民税。 家の価値に対してかかる)の免除は、わたしの通っている学校では控除の条件を満たすことができず、年間800ポンド (約16万円)ほどの税金を払うことになってしまった。事務の先生の話では、昨年の9月ごろから取り立てが厳しくなっ たとのことで、それまでは皆免除されていたらしい。以前の「やめとけ!」という神様の声の件を思い出してしまう。 学校へは基本的に歩きで通っている。早足で45分ほどの距離だから、なかなか良い運動になる。学割を使ってもバス定期 の割り引きは3割ほど。雨で歩けない日にバスに乗るとしたら、かなりの損になるので買っていない。バス料金は片道1.2 ポンド(約240円)。ペイントンの頃のような往復チケットは存在せず、往復2.4ポンド取られる。田舎の方が生活は 楽なのである。(ただ、ロンドンで地下鉄の定期を持っていると、バスはロンドン管轄内は乗り放題だ。だから、地下鉄 定期を持っていると、かなりお得なのは間違いない。わたしも夏以降は校舎が変わるので、定期を持つことになる) さて、ペイントンの話を締めておかねばならない。 シャモニー・チューリッヒの旅から帰ってきて、まずやったこと。それは水曜日のパブに出かけて、みなさんにサヨナラを したことである。クリスマスの季節だったので、ピアノのパムやいつも良くしてくれたジューンおばあちゃんが、クリスマ スカードをくださった。引っ越した後、ロンドンからそのパブであるチャールストン・コートにサンタがやってきたという デザインのクリスマスカードをお返しに送っておいた。 何度も「今回が最後です」といって、しかし復活したので、少々狼少年っぽい感じになってはいたが、今回は予定も完全に きまっており、この地をまた訪れない限り、本当に最後となる。「このすばらしき世界」をはじめ、何曲かのおなじみと なっていた曲を歌い、最後にこの宴のきっかけとなった「希望と栄光の国」を力いっぱい歌って、皆さんにお礼を言い、 再会をお約束してお別れをした。春にはきっと訪れて、また皆さんと楽しいひと時を過ごしたいと思っている。 日々はあっという間に過ぎ、ドライバーのデビッドの家でお別れ会を開いてもらったりしていると、もう明日は引越しと いう日になってしまった。デジカメで、あたりの風景を撮って歩く。 毎度通ったコインランドリーや、蒸気機関車の駅、街で一番人気のパブなど、すべてが思い出になってしまう。 わずか10ヶ月ちょっと暮らした街なのに、なにやらとても感傷的になる。 引越しをするというと、日本にいたときも毎回大騒動になる。何しろわたしは物を集めるのが大好きで、すぐ部屋は馬鹿 バカしいともおもえる「物」であふれてしまうのだ。ただ今回は、年末で帰国ということも頭にあったことから、あんまり 変な物は買い込んでいないはずだった。しかし、ペイントン来たときタクシーに普通に積めたはずの荷物は、なぜか借りて きたレンタカー一杯に膨れ上がった。何もいわなかったのに、ハッチバックタイプの車を貸してもらえたのがとても助かっ た。 「立つ鳥あとを濁さず」という日本人の心にならって、一生懸命掃除をしながら、不動産屋のピーターが来るのをまってい た。ピーターは、この家に移り住んだときに、変なにおいがするとかボイラーの調子が悪いといったときにきてくれた人 なので、これまたお礼を言わねばなどと思っていたら、来た人は違う人だった。設備の調子などをいろいろチェックする のかと思っていたら、ほとんど見るわけでもないままに、「他の人たちも君みたいににしてくれたら、助かるのに...」と、 掃除をした者としては一番うれしい言葉をかけてくれる。結局その後に送られてきた敷金返還の明細書によると、当たり前 の清掃費以外取られていなかったので、言葉どおりの評価だったのだろう。外国といえば契約社会といったイメージがどう しても強いが、まだ田舎ではこんな調子の人付き合いといった商売をやっているのだ。もちろん、今いるロンドンでそんな 按配かといえば、これは警戒してかからねばならないだろうが。実を言えば、このロンドンの家の大家さんは大変よい方で、 よくメールでのやり取りをして、英文を教えてもらったりしているので、ここを出るときも「人付き合い」系を期待して いるのではあるのだけれど。 ばたばたと冗談などを交えて担当の人としゃべり、何度か確認をして二人で家を出た。とうとうこの家ともお別れだ。 この後デクラン親父や他の先生に挨拶に出かけることにしているので、約束した時間まで少々あった。ペイントンの海岸に 車を止めて、写真を撮る。 結局この海水浴場では一度も泳がなかった。なぜだと聞かれてもなんとも返事のしようがない。なぜかその気にならなかっ た。それどころか、すんでいたアパートには小さな屋外プールが付いていて、夏の間中子供の歓声がしていたのだが、その プールも一度も使わなかった。「水を得たカバのように泳ぐ」というのがキャッチフレーズ?のひとつであるわたしが、 どうしてそうなったのか、歳のことをふと考えてしまう話ではある。 さて、海辺をうろうろと歩いていて気が付く。部屋の冷蔵庫に貼っていた、各地の記念に買ってきたマグネットをはがし 忘れてきた。それどころか、これはなんと今思い出したが、不動産屋に連絡もしてはいなかったので、これはどうしようも ない。英国の西の端であるランズエンドや、黒い白鳥のいる町ドーイッシュ、あとは何のことはない、いまや自分の住む 地区であるグリニッジ天文台のマグネットが失ったものである。今の家にはマグネットをつけることのできる扉や冷蔵庫が ないので、持っていても置き場に困ったとおもうが、ちょっと残念なことをした。 時間が来たので学校に行く。 デクラン親父は、最近わたしがホームページに学校のことを書いているのを知り、それを見せろといっていたので、今日 最後の日に見せることになっていたのだ。彼は印刷もしたかったようだが、カラープリンターにつないだ機械では、日本 語の文字が導入されていなかったので、それはできなかった。デクランや、売店のメアリーさんに「ここに「デクラン」 と書いてあるよ」などと説明しながら、このページを見せると彼らはとても喜んでくれた。 最後に受付の人に写真を撮ってもらい、握手をしてお別れをする。もちろん近い再開を約束して。 人間である以上、人と付き合いがなければ楽しい生活はできない。 ここペイントンに不思議な縁でやってきて、おそらくこのデクラン親父と出会わなかったら、もっと早々に退散していた のではないだろうか。彼のおかげで、自分がしらなかったいろいろなことを知ることができた。それには、英国の歴史と いった、だれでも本で読めば理解できるような事もあったが、それよりも、英国に住む一人の初老の人物が考えている事 を、いろいろな場面で屈託なく話してくれたことが何よりもうれしかった。中には小声でしか話せないような話もあった のだから。 ロンドンの暮らしで、いろんな出来事がたまったら、また話しに行こう。 それまでペイントンともお別れである。 荷物満載の車に乗り込んでギヤをローにいれ、カモメが飛び交う街を後にした。 英国滞在記ペイントン編 了 (ひとまず、ペイントン編を締めさせていただきます。ご愛読いただきありがとうございました。この先は、面白そう なことがあればロンドン編などを作ってお話させていただきたく思います。)

英国滞在記(その1: Milton Keynes 編)へ

英国滞在記(その2: Paignton 編)へ

英国滞在記(その3: Paignton 編2)へ

ホームページへ