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留学について(ページ2)




                  最終更新日2001年4月16日(次のページになります)


4.留学開始

 ちょっとした「ポリシー」を書いておこうと思う。

それは、外国と人についてである。
なにしろ外国に行くのは、社員旅行でいった韓国と香港、それもおのおの数日間が最高で、
しかも、周りは英語の出来る日本人ばかり。なんの不安もなく旅ができた。しかし、今回の
外国行きは、なにせ一人で出来る限りのことをやらねばならないのに、自分は日本語しか
できないに等しいわけだ。じゃあ、どうやってコミュニケーションをとれば良いというのか
というのは、外国語に不安のある人は、みな思うことだと思う。
そこで、ほとんど開き直りともいえる「ポリシー」が登場するのである。

「2.留学準備のまた準備」というところでも書いたが、私はアガサ・クリスティーの
ミス・マープルシリーズが大好きだ。マープルおばさんとその仲間たちの交流や、男と女の
感情の機微なんかがとてもうまく描かれていて、とても楽しく読める。ある日、いつもの
ようにマープルおばさんの活躍を読んでいて、ふと思った。

「どこの国の人も、おなじやねんな...」

そういえば、聖書に書いてあるいろんな話しも、いまだに「なるほど」と思って読める。
聖書が硬すぎると思われるのなら、イソップ童話だって「なるほど」の固まりである。
ちょっと時代をさかのぼれば、源氏物語だってそうだし、文芸の古典というものも近代の
ものも、古今東西をとわず理解できない話しは少ないのだ。
コンピュータも自動車も電球も無い時代の人々も、恋をしたり悩んだりして生きていた。
(この話しを書くと、「人類は何千年も進歩してない」という話しに持っていきたくなるが、
ここではおいておくとする。)
もちろん古典のみならず、全く現代の人々も世界中同じような感情を持って生きているようだ。
なぜなら、映画というものは、みんな同じように見て、同じようにヒットしてるではないか。
細かいことを言えば、いろいろ物の見方感じ方も違うのかもしれないが、大まかに言って
人間は同じようなものらしいということに気がついたのである。

この留学は、その「どこの国の人も同じやねんな」という思いを、証明するための旅でも
あったのだ。そしてその仮説は、自分の中では「証明された」つもりでいる。

さて、このポリシーを持っている私には、たとえ英語が出来なくても怖いことは無いわけで
ある。シアトルの空港でも、ちょっと苦労はしたけれど、なんとかビクトリア行きの小さな
飛行機に乗りこみ、いまや海の上なのだ。

海の上という話しについて、ちょっと、ビクトリアの事情を紹介しておかねばなるまい。

ビクトリアは、カナダの西の端、ブリティッシュ・コロンビア州(以下BC州)の州都である。
BC州で一番大きく有名な町にバンクーバーがある。ちょっとややこしいのは、バンクーバーは
カナダ・メインランド(つまりアメリカ大陸)にあるが、ビクトリアは「バンクーバー・アイラ
ンド」という島にある。つまり、バンクーバーはバンクーバー・アイランドにはないのである。

ややこしい話しはこれくらいにして、つまり私は今、「バンクーバー・アイランド」に向けて
飛行中というわけだ。飛行機は双発の高翼プロペラ機である。何人乗れたかなんてことは
忘れたが、ま、30人のりくらいだったかと思う。これには、その後何度もお世話になること
になる。
なにやら、カナダ入国のための縦長の紙に書いてある質問を、辞書を引き引き書きこむ。
この紙には必ず農産物についての記述があり、要するになまものを持ちこむには、いろいろ
制約があるよということらしい。ちなみに、それから1年後の日本帰国のとき、妹の所望で
大量に買ったコーンフレークのことが気になって、日本の税関で「コーンフレーク持ってます」
と言ったが、「何?」なんて顔をされた。ま、大丈夫なんでしょう。

そうこうするうちに、飛行機は陸地の上を飛ぶようになったかと思うと、本当に田舎の草原の
ようなところにおり始めた。

>ともかく、どうやって会えば良いのか?などとかいたら、
>「心配しなくてもよい。ビクトリア空港は狭い」

これは、前に書いた「ビクトリア空港でホストマザーが待ってます」という手紙に対して、
不安になった私が書いたメールの話しである。

「こりゃ、たしかに大丈夫そうやな」

と、一安心しているうちに、飛行機は無事着陸した。

さて、私はちゃんと待っているはずのホストマザーに会えるのでしょうか?
狭いビクトリア空港だから大丈夫?

ちょっと、今日は書きすぎたようだ。この話しは次回にしよう。
たとえそれがバンクーバーでも、きっと私はホストマザーに会えたというようなことに
なったのである。





(参考:ビクトリア空港前でのラルフ。空港の玄関という感じじゃないですよね。
 ラルフのことは、そのうちきっとでてきますが、ビクトリアの兄貴です。)


そして、ついにビクトリアに降り立った。
少しだけ雲が浮いている青空。とてもすがすがしい気候。ビクトリア空港は、描いていたイメージ
どおりの場所だった。現在の記憶の底に眠る、ビクトリア到着の時の光景には、薄い緑が一杯でて
くる。やわらかな光と、緑がとても印象的だったのだろう。

なんて、感傷的なことを言っている暇ではない。
まず、荷物が出てくるかどうか心配である。小さな空港の小さな荷物受け取り場で、何年になるか
わからない生活の為に持ってきた、荷物を待つ。大きなバッグが3つ、ちゃんと出てきた。
その2年後にビクトリアを再度訪れたときは、出てこず、現地に迎えにきてくれた友達が、いろいろ
聞いてくれた(情けない話しですね)ことを考えると、この時、ちゃんと出てきてくれて、本当に
良かったと思う。

さて、こんな荷物を素手では運べないから、キャリアーを使おうとしたら、なんとこれが有料で、
何セントかなんかと書いてある。カナダドルは、日本の銀行でちょっとだけ持ってきていたが、コインは
無い。これは困ったと思った。
申し訳無いことに、ここから先の記憶が薄くて、正確な話しが出来ない。ただ、わたしはどういうわけか
キャリアーを使って、入国検査へと向かったのだ。たしか、USドルでも使えたのだと思う。シアトルで
買ったジュースが効いたのか?ともかく、この逸話を書いたのは、はじめて海外に行くときは、小銭も
ちょっとは確保しておいたほうが良いということが書いておきたかった。

キャリアーを使えたときの、「あーよかった!」という感想が心に残っている。

キャリアーを使って、最大難関である「ホストマザーと会えるか」という難題へと向かおうとした。
もちろん、その前に「入国審査」があるが、アメリカ・シアトルで一度経験しているから、こっちは
なんとかなるだろう。なんせ、ビザもちゃんとあるから、「さいとしーいんぐ」なんて、言わなくても
良いわけだから。
実は、さすがに「Sightseeing(観光)」くらいは知っていたが、なんと、「留学」という言葉を
知らなかった。シアトルに向かう飛行機の中でそれに気がついて、いそいで辞書を引く。
「studying abroad」というらしい。これさえ覚えていれば、入国目的はOKだろう!

数人の入国者しかいない中、何があっても迷惑にならないように、最後にならんで待っていると、
ついに順番がきた。

「入国の目的は?」
「リュウガクデチュ」

と言いながら、ビザの紙を出す。

さて、わたしの記憶はこれで終わっている。なぜなら...
もちろん、失神して倒れてしまったというわけではない。

要するに、何をいってるのかさっぱりわからないのである。
当然、今現在も、あれが何をいってたのか、覚えているはずもないのだ。

入国管理官は若い美人の女性だった。
「女は融通が効かんちゅうのは、世界共通かいな」なんて思ったことも覚えてる。いま、考えて見れば、
融通も何も、変な日本人がわけもわからん状態で、入国させるわけにゃいかんのだろう。

敵は、二人になった。こんどは、小太りのいかにも外人といった感じのおっちゃんがでてきた。二人は
何事か相談しはじめた。

「だれか迎えにきてるの?」

彼女が言った言葉が、わたしには、そう聞こえた。

「ハイ、コノヒト」

と、学校から来たホスト紹介の紙を差し出す。

すると、彼女は後ろのドアから出て行った。
と、アナウンスが...無かった。
なんと、何やら探しているような声が、ほんのすこし大声といった按配で聞こえてきたのである。

わたしは、どんな人が現れるのか、ちょっとわくわくしながら待った。

しばらくして彼女は、一人の女性と部屋に入ってきたのだ。この女性がホストマザーに違いない。
しかし、ここは入国管理事務所だから、一緒に来た女性は、わたしのいる所までは来れない。
向こうのカウンターで、なにやら喋ってる。

やさしそうな人だ!

入国管理官は、私のほうにやってきて、何やら言い、パスポートに印を押してくれた。
その内容は、きっとホストマザーが知ってることだろう。もう、安心だ。

大荷物を持って、ゲートをくぐる。
狭い空港ロビーには、さっきの女性と、少し若い男性が待っていてくれた。

「コンニチワ!」

ついに、留学生活が始まったのである。



さて、これを書いているのが2000年の3月26日夜。
これから、書こうとしている話しは、1996年4月20日の事。これを、覚えているという
方が無茶な話しだ。
人の記憶というものはとても変なもので、この日のことで覚えていることといえば、昼間に車のライトを
付けっぱなしで走っているのをおかしく思ったことと、喫茶店みたいなところで、コーヒーを飲んだ事。
車のライトの話しは、また書くとして、コーヒーを何で覚えているかといえば、「誰が払うのか?」
ということでドキドキしたから。

「何をセコイ!」

と、いわれそうだが、この辺が異文化に触れるということなのである。
ちゃんと、ホストマザーのマグダは払ってくれた。こりゃ、良い人のようだ!
(しかし、マグダはスコットランド人で、実は「倹約家」、ま、普通に言えば「ケチ」な人であったと
 わかるのだが...もちろん、悪い人じゃ全くなく、この留学のいろいろな事は、彼女なくしては
 なりたたなかったほど、お世話になった。)

マグダと一緒にいた男性は、ケネディーという同い年のスコットランド人だった。彼とマグダの本当の
関係は、最後までわからなかった。マグダは、もう独立した二人の子供をもつ40代後半のシングル。
当初は、同年代の男として、なんとも西洋的?なものだと思っていたけれど、よくよく付き合って見ると、
ただの同郷人の友達同士みたいでもあった。これについては、深く聞いてみたこともない。
ケネディーという名には、アメリカ大統領を思い出される。しかし、彼の場合ファーストネームなのだ。
西洋人の名前は、苗字も名前も何かにちなんでいる場合が多いから、そういうこともあるのだろう。
余談だが、新聞の訃報欄を見ていたら、ウィリアム・ウイリアムソン氏死去なんて書いてある。
「ウイリアムの息子のウイリアム」なんて名前なわけだ。日本の苗字には、息子という意味が含まれて
いるものはあるのだろうか?そういえば、マクラーレンとか、マクドナルドとかのMacという言葉も、
息子という意味だと聞いたことがある。このあたりは、調べて見ると面白そうな話しが出てきそうだ。

さて、コーヒーを飲んだ後、ついに「我が家」についた。西洋建築といえば、白亜の豪邸をちょっとだけ
想像していたが、こじんまりした建物である。ただ、綺麗に刈られた芝生や、色とりどりの花、そして、
なんと言っても余裕たっぷりの家の配置が、日本ではないことを感じる。

家に入ってみると、平屋に見えた建物には、ベースメントと呼ばれる下の階があった。つまり、家は
坂のようなところに建っていて、坂の上と下にそれぞれドアがついていて、出入りが出来るのである。
下宿人は、下の出入り口のかぎをもらって出入りするようになっていた。

下宿人?

そう、ここはホームスティとはいっても、「マグダ下宿」みたいなもので、マグダが数人の留学生の
面倒をみているところだったのである。こういうホームスティに関する割り振りは、まったく運に
左右されるらしい。私は、きっと中吉くらいの良いところに行ったと確信している。大吉は、たとえば
ビクトリアで最高の場所の、それこそ億万長者みたいな人の家で、ひとも親切みたいな話しもあった
から、そう言うことにしておきたいのだが、先もかいたとおり、私はマグダのところでお世話になって
本当に良かったと今も感謝しているから、私にとっては大吉だったと思っているのだが。
悪いホームスティにあたると、机の古傷を自分のせいにされて損金を請求されたり、毎日パスタ(安く
つくから)ばかり食べさせられたり、いろいろなうわさを聞いたものだ。
わたしは、そう言う事は無かった。


(マグダの家と、わたしが1年半住んだ部屋です)

マグダは、ベースメントの1室に私を案内した。6畳くらいの部屋に、ダブルベッドと机とたんすが
置いてある部屋だった。机の前には窓があり、ベースメントらしく窓のすぐ下は地面が迫っている。
下宿だけあってというか、トイレは3つある。一つはマグダの部屋にあるから、これは使わない。
上の階の下宿人用に一つ。これにはシャワーとバスタブがある。そして、ベースメントの住人が使う
トイレとシャワー。これで全部だ。バスタブは、上の階のものも使うことは無い。と、いうか、この
うちの温水システムが弱く、風呂を張ると湯が無くなってしまうのである。
日本人の女の子も、かつてこの家に過ごしていたことがあるようであるが、そこは西洋ということで、
納得もするし、もしバスタブが恋しくなれば、歩いて5分のところに、公営のプールがあって、そこ
で、ジャグジーにつかっていれば良いということらしかった。わたしは、もともとシャワー派なので、
別段苦にはならなかったが。

どうも、話しがそれる。これでは、書いても書いても終わらない!

イギリス人らしくお茶ということになって、上の階にあるキッチンにいった。キッチンには幅を調節
できるテーブルがあって、花が飾ってあった。レンジは電熱。マイクロウェーブと呼ぶ電子レンジと、
大きな冷蔵庫。当たり前の設備であるが、はじめての西洋は何もかもが新鮮である。
上の階には、キッチンのほかにマグダの部屋と、下宿人の部屋が2つ。あと、ひろいリビングがある。
マグダの家は土足禁である。靴は入り口のところで脱いで、スリッパか上履きに替えなければならない。
これも意外だった。西洋は靴履きで水虫が蔓延してるのではなかったか?なんのこっちゃ!
いやはや、このとおり、聞いてきたことと経験することでは、全然違うのである。
水だってそうだ。ビクトリアの水は問題なく飲める。西洋は、みずが飲めないなんて良く聞いたもの
だが、日本と同じに飲める。ただ、場所によって違うということなのだ。



(真中の二人がマグダとケネディ。キッチンとリビングの様子です。
 この当時カメラの調子がわるく、下に変な陰が入ってます。)


お茶を飲みながら家の決まりを聞き、部屋に戻る。決まりを聞いたといっても、まだ、ちゃんと理解
したわけじゃない。
さーて、ひとまず、落ち着いた...かな?



部屋に戻ると、早速インタ−ネットである。
カナダ(ブリティッシュコロンビア州)は110Vの電源でかつ、日本と同じ形状のコンセントだから、
電熱系以外の器具はほとんど問題なく使える。電話のモジュラージャックも日本と同じだ。
ビクトリアにIBMネットのアクセスポイントがある事は事前に調べていて知っていたし、実は日本
から国際電話でそのポイントにつないでテストしてみたこともあったのだ。おろかな話だが、初めて
とはそういうものである。
部屋には電話線がきていた。この電話は、下宿人が共同で使っているもので、マグダは自分の電話を
もっている。カナダは市内通話は基本料金でOK。つまり、市内にかける分には無料だ。下宿人たちは、
電話会社から送られてきた請求書を元に、それ以外の料金を確認してマグダに払うということに
なっていた。わたしは、インターネットを使うために、その後自分の回線を持つことになるのだが。

さて、今回はその下宿人用回線を使う。
パソコンを立ち上げてモジュラーに接続し、通信!
あっけないくらい一発でつながった。
早速メールを出す。すごい時代になったもんだと、痛感。これで、日本の人々も、わたしが無事で
あることを知ることができるだろう。

さて、到着当日の夜に早くも事件が起こった!
夜中にトイレにでかけて、水を流したら、なんと詰まっていて水が溢れてきた!
漫画みたいな話だが事実である。何かが詰まったらしい。マグダ家の名誉のためにも書いておくが、
このような事態は、その後一度も起こらなかった。しかし、わたしが入居した当日の晩、びくびくの
状態の晩に起こったのだ。
夜だから、マグダを呼ぶのも悪いし、何しろ説明もできるかどうかわからない中、呆然としていたら
マグダが寝室から降りてきた。

「夜中に水を流さないでね。パイプの配管が悪くてうるさいから、他の人に迷惑がかかるのよ!」

もちろん、こんな英語をたちどころに理解できるわけがなく、その後理解したものであるが。
しかし、そんなしきたりは今はどうでも良い!わたしは何か身振りをまじえながら、便器の方を指差した。

「あらあら、これは困ったわね!」

みたいなことを言っていたに違いないが、あふれたとは言っても幸運なことにほんの少しだったので、
モップのようなものを持ってきて拭いてくれ、その後、日本でもおなじみの、半球のゴムととっての
ついた詰まり排除器具をどこからか持ってきて、バシバシやっていた。

「おぉ!やはりどこでも同じやわ!」

わたしは、今後なんども思うことになるこのせりふを思いながら、作業を見ていた。

さて、この夜中に水を流せないのは、かなり困った。小便の場合は別になれればどういうことはないが、
大きいほうはできるだけ我慢して、翌朝を待つ。どうしようもないときは、さすがに流していたが。
もちろん、シャワーなども夜10時を過ぎての使用は、同じ理由で不可だった。
このシャワーという奴も、セントラルヒーティングは良いのだが、タンクが小さいということで、
あまり使うと、湯が水になってしまう。いよいよ、歩いて5分のプールが「風呂」ということに
なるわけである。

マグダの家では、そのほかにもいろんな決まりがあった。
たとえば、流しやシャワーの使用後は、かならずタオルでぬぐっておくこと。これは、ゴルフ場なんか
でたまに見かけるマナーであるが、実際にマグダの家では実行しないと注意される。シャワー室なんて、
小さな部屋だがぬぐうのはなかなか骨であるし、急いでいるときなどは大変だ。
あと、皿洗いはみんなでやる。まるで合宿生活みたいであるが、この皿洗いが面白い。
マグダのキッチンには布巾がいくつかかけてある。皿やコップを洗った後、布巾で水滴をぬぐってから、
それぞれの収納場所に収めるのだ。これは、きれいなのやら、さらに汚いのやらわからない作業である。
布巾のほうはそうこまめに洗っているようには思えないけれど、水滴がついていることのほうが、きっと
悪いことなのに違いないと納得して、ずっとそのようにしていた。

あと、タバコは裏庭で吸う事とか、下宿人はベースメントのドアを使って入ることとか、いろいろある。
これから少しずつ慣れていけばよいだろう。

翌日からは本格的なくらしが始まる。



本格的な...なんて書いたが、ちょっと記録を調べてみると、到着当日もいろいろやっていたことが
わかったので、いきなり一寸だけ時間をもどそう。(なんと、場当たり的に書いていることか...)

 到着の日、今度同じタイミングで入寮?した韓国のチュンヨン(本当の名前はパク・ジュンヨンというの
だが、さよならする時にカードの交換をして、初めてジュンヨンだと知った)とマグダの3人で、銀行に
いって口座を開きにいった事も書いておかねばなるまい。まずは銀行というあたりが、しっかりものの
マグダらしいところだと、後から考えればわかるのだが、なんせ到着当日である。しかも、土曜の昼という
わけで、

「口座開設なんてできるんかいな。イギリスはオンラインすら発達してないらしいのに」

などと、出発前に仕入れた知識と照らし合わせながら出かけてみると、あっさり開設できた。
暗証番号を入れてくださいといわれて、チュンヨンに見られないように超高速に入力したら、担当していた
人が笑っていたのを覚えている。よほど警戒していたのだろう。しかし、外国で生活するからには、ちょっと
過ぎるくらいの警戒が必要なのではと今でも思う。結果的には、チュンヨンは「超」がつくほどの真面目
人間で、とてもよい奴だったのだが...彼のことは、おいおい書くこともあるだろう。
わたしの、韓国の友達第一号だったのに、今は連絡が取れなくなってしまった。残念である。

さて、銀行の隣には、今は無き「Kマート」があった。マグダがよっていくというので、早速、西洋の大規模
店舗を観察させてもらう。その後、よく利用していたが、2年後に再度訪れた時、
「ダイスケの好きなKマートがなくなったよ」
と、言われた時は、ちょっと複雑な気分になった。
さて、その好きなお店に初めて入った日、なんやらいろいろある店やなぁと思いつつ、コンピュータなんか
あるかいなとか、テレビはどのくらいで手に入るのかいなとか見て廻る。コンピュータはそこの店にはなかった。
テレビもそんなに高くない値段であるのだが、(値段はわすれた)マグダは、「テレビは別の店」みたいな
ことを言っている。こうなったら、徹底的に頼るしかない。

家に帰って夕食の時間になった時、チュンヨン以外の住人と初対面する。
ジラーは、ヨルダン人。まだ20歳くらいで若く、とても元気なやつだ。わたしの行くことになるカモソン
カレッジの学生だが、今年で卒業らしい。マグダは、わたしにまつわる学校やビザの関連で必要になることに
ついて、彼が手伝ってくれるようたのんだらしい。このあと、いろいろお世話になった。
あと、台湾人の高校生の兄弟。兄貴は、そうりょうの甚六そのものの甘えたで、弟はしっかりしてるようだ。
もう一人、日本人がいるらしいが、今はどこかに旅行中らしい。
チュンヨン、わたし、そしてマグダの計6人が同じ食卓を囲むのである。

食事の後片付けが終わると、マグダのうちではかならずデザートと紅茶の時間となる。

マグダに「明日の日曜日は、教会にいくの?」と聞いた。マグダは大変うれしそうに、「一緒に行く?」と
聞いてきたので、ここぞとばかりに一緒したい旨を伝える。まずは、文化を知ることが大事だ。いろんな人と
知り合いになる為にも教会は一番だろうとおもって、そんな話題を切り出したのである。

この時点では、ビクトリアには3月ほど居て、後はどこか別の場所へ行こうなんて思っていた。ところが、
その教会で「思惑通り」にいろいろな人に出会って、結局お金が尽きるまですむことになる。
マグダの家に住むように手配された時点で、そうなることはきまっていたようだ。

もし、マグダのところに行っていなかったら...

きっと人生レベルでいろんなことが変わっていたことだろう。



さて、西洋の教会というと、大聖堂といったイメージがある方も多いと思う。しかし、わたしが学校で
勉強したプロテスタントといわれる一派は、中世の教会が、権力志向に流れたのを批判して生まれた経緯も
あって、建物に凝らない傾向にある。
マグダが連れて行ってくれる教会はプロテスタント教会らしい。これは、理解しやすそうだ。
日本では学校や地元の教会で礼拝には良く出ていたから、どんな違いがあるか興味津々である。

マグダの家の周りは、花と緑で一杯だ。日曜日の朝、太陽のやさしい光のなかで、マグダが出てくるのを
待っていると、本当に外国に住むのだなという実感が湧いてくる。マグダは、一寸おくれて登場した。
マグダが遅いのはいつものことだというのもおいおいわかってくるのだが、もちろんそんなことは知らない
から、ちょっとじりじりする。
マグダは自分の車を出さずに、数件はなれた友達のグレンダさんのところへ行く。グレンダさんには、
車の中で紹介してもらった。もちろん、すぐに出発したからである。

パシフィック・リム・チャーチは、車で10分ほどのところにある。日本でいえば、小さな幼稚園ほどの
建物で、駐車場もあるが、あふれた車が道路に何台もとまってる。もちろん、遅れ組みのわれわれも路駐だ。
教会は幹線道路からは離れているので、路駐といっても迷惑にはならないし、もちろん、全市駐禁などと
いう、もう論外な日本の一部の法律とは無縁の世界である。

マグダとグレンダさんは、教会へ向かう人と挨拶しながら歩いている。わたしは、85kgの体を小さく
して、ちょこちょことついていった。

教会の出入り口では、週報を配っている。我々はちょっと遅れているので、ほとんどの人は礼拝堂に
座っていた。後ろのほうの、空いている席に腰をかける。

礼拝は、音楽から始まった。讃美歌ではない。ワーシップソングといわれる、聖歌をみなで歌う。
(ちなみに讃美歌は「ヒム(Hymns)」といって、これもたまに歌う。)聖歌はハモンドオルガンの
伴奏に、3人の男女が気分たっぷりに歌うのに合わせて歌うのだ。歌詞は、その3人の中の一人がOHP
(オーバーヘッド・プロジェクター:透明のフィルムの上に書いた文字や絵を大きくスクリーンに写す
機械)を操作して、みんなが見えるようにしている。
聖歌は短いもの、長いもの、あわせて10曲くらいもうたっただろうか。盛り上がってくると、みな手を
あげたりする。わたしも手こそ挙げなかったが、気分よく歌わせてもらった。
歌が終わると、子供たちは地下にある日曜学校のために出て行く。ちょっとした報告のあとで、また、
歌が始まった。今度は我々は歌わず、カラオケの伴奏できれいな声の女の子が壇上で歌う。さすが西洋人と
いうか、この歌はうまかった。専門家かとおもったが、普通の歌好きのクリスチャンだと後で知る。

歌が終わると、パスタ(牧師)が現れた。なにやら大きな身振り手振りで話をしている。聴衆は、時には
大笑いもしながら聞いている。

(ここで、告白するが、この牧師(パスタ・ジム)の話は、最後まで一度もちゃんと理解できなかった..
 初めて聞いたとき、「この牧師の話もわかるようになるんやろなぁ」と思いながら聞いていたが、
 最後に聞いたとき「結局、わからんままやった...」と、かなり落ち込んだ。
 みなが大笑いしているギャグのいくつかが理解できたときには、とてもうれしかったが。
 牧師の話はわかりやすいはずなのに...ま、そんなもんやったということです。)

説教が終わると、お祈りをがあって、献金があって、週報の報告があって終わる。このあたりは、日本と
全く同じ。聖餐式(せいさんしき)といわれる、信仰のつながりを確認する儀式も、月一回おこなわれ、
パンとぶどうジュースが配られていた。ぶどうジュースは、もともとぶどう酒だったらしいが、アルコー
ル依存症の治療者に悪いということで、ジュースにかわったらしい。わたしは、信者ではないので、
いつも遠慮していた。

話がそれた。
礼拝が終わると、コミュニケーションの時間になる。小さなロビーにはコーヒーのサーバーが置かれ、
めいめい紙コップについで飲みながら喋っている。マグダにくっついていると、いろんな人を紹介して
くれるが、さっき壇上で気分良く歌っていた3人のうちの一人が、ランディーさんという以外は覚え
られなかった。なぜ、ランディーさんは覚えられたか?阪神ファンなら当然覚えられる名前だからである。

ここで、驚くべきというかなんというか西洋の人たちの特殊技能を知ることになる。
その翌週この教会に行った時、なんと...何人もの人から「ダイスケ」あるいは「ダイスキ」と声を
かけられたことだ。(ダイスキとは変だが、DaisukeのKEは「キ」と発音するのが一般らしく、
よくそう間違えられた。別嬪さんからそういわれたらうれしかっただろうが...)
彼らが、人のファーストネームを覚える才能はすごい。きっと、名前を覚える習慣というものがあるの
だと思う。わたしなど、ふとであった人の名前を真剣に覚えようとはなかなかしない。
でも、コミュニケーションの手段としては、かなり役立つ技能だと思う。かといって、いまからそれを
できるようになろうと思っても、なかなか難しく、名刺にたよったりするままであるが。

またまたそれた。

マグダには、「日本人のメロディーを紹介するから」と言われていた。メロディーとはなんじゃろか?
と、思っていたら、「みどり」さんが現れた。みどりさんは、ラルフというカナディアンの旦那さんが
いるクリスチャンで、何人も日本人留学生の面倒をみてこられたらしい。

みどりさんと、わたしの教会歴みたいな話をしていた時、日本の讃美歌を弾くことが少しできますと
いうような話になった。

「あら、ラルフのバンドでキーボードの人が欲しいのよ。だいすけさんやらない?」

なんでもやってやろうじゃないか!!

とは、今回は行かない...なんせ、わたしゃクリスチャンでもないし、なにしろテクがない。
しかし、やってみたいのも間違いない。そういうことをしに来たんじゃないか!

「練習におじゃまします」

と、だけこたえて、その場は終わった。

今にして思えば、教会で過ごしたこの午前のひと時が、なんとも楽しい日々の本当の幕開けだったと
思うのである。



 教会から帰って、今度はプールに連れて行ってもらい、何回か有効なパスを買ってもらう。
買って貰うというのも変な話であるが、なにしろ学生がどうとかいろいろ聞かれることがあって、
もちろん当時そんなことがわかるわけがない。
このプールは先にも書いたとおり、風呂の代わりでもあるので今後良く通うことになる。
家から歩いて5分のところにあって、25mプール、ジャグジー、サウナ、あとトレーニング
設備があるが、最後までこれは使わなかった。
 外国の、しかも公営プールに入るなんて初めてだし、かつ一人で入るのだからひやひやものだった。
よく考えてみれば、外人と裸の付き合い?というのも初めてである。
このころは、なんでも「文化や文化!」と独り言を言いながら突撃していた。
ロッカーは25セントを入れてかけるが、使い終わると戻ってくるタイプであった。
日本の銭湯で、外人が肌をさらすのを嫌がるなんてうわさがあったから、どんなロッカーかいな
と思いながら入ったが、なんのことはない、普通のロッカーだった。ただ、部屋の奥に木の扉が
あって、その中では人に見せないように着替えができる。ここは、餓鬼の格好の遊び場になっていた。
プールにはいってみると、ちょっと水がしょっぱかった。これは、その後もずっとそうだったから、
きっと何かが違うのだろう。
サウナに入ってジャグジーにつかり、外へでてみると、夕焼けが美しい。
プールは野球やサッカーのできるフィールドの脇にあって、絵に描いたような外国の田舎の風景だ。
ダイダイ色とうす青の空の下、芝生の緑が美しいなかを、プール後の爽快な体で家に向かってあるく。

 あぁ、外国に住んでるんやなぁ...

外国に住むためにはビザがいる。
出発前に書いたように、申請してカナダ大使館からもらった紙はビザではない。ビザ引換証である。
マグダはジラーに、わたしと一緒にビザを取りにいってくるよう指示した。
同じカモソンカレッジの学生であるジラーはビザを取りに行く前に、なにやら学校にでんわしている。
やおらニヤっとすると、「ダイスケ電話だ」という。到着したら、電話しなさいということが案内に
書いてあったのだが、そんなんできるかいなと思っていたらジラーが電話したというわけだ。
びくびくもんで電話に出て、てんでわからん会話をした。これも、空港と同じで、頭真っ白だった
から全然覚えてない。ともかく、ジラーに電話を渡してお勤めは終わった。

ジラーと家を出て、バスに初めて乗る。
料金を払うと、ジラーは、何か言いながら変な文字の書いた紙切れを渡してくれる。
何を言ったかわからんが、とりあえず握り締めておく。

バスはダウンタウンについた。

さっきの紙はどうするのかと思ったら、そのままジラーはバスをおりる。
ジラーについてゆくと、お役所に入っていった。そこがビザをくれる場所らしい。
ジラーがわたしのことをいろいろ説明している。

「じゃ、その引換証を出して」

これで...え?、なんと持ってきてなかった...

さっきの電話で頭がまっしろになったのか、一番大事なものをわすれている。
しかし、ちょっと時間があったあと、なんとビザを発給してくれた。
ありがたいはなしだ。ジラーに2度手間させないで済んだし。

役所を出るとジラーは急に早足になった。バスに乗るらしい。
そういわれてみれば、今日は学校にも行くということだったから、次は学校である。
ビクトリアのダウンタウンのバス乗り場は、ダグラスストリートの一角にほとんど集まっている。
これから何度も乗ることになるインターアーバン行き21番のバスを待つ。
バスが来て乗ろうとすると、ジラーがさっきの紙を出して運転手のところに置いてある箱に入れた。
わたしも同じようにしてバスに乗る。さっきの紙は、乗り換えようのチケットだったのである。
もちろん、さっきのように途中で用を済ますのはちょっと反則なのだが、しばらくの時間ならOKな
のだ。ビクトリアのバスは1区間ならこの方法が使える。ただ、はじめの区間で乗るときに運転手に
頼んで、先に出てきたチケットをもらって置く必要がある。これを知らないと、バス代を損する。

カモソンカレッジのインターアーバンキャンパスへ行って、ジラーのおばさんのうちにによって
ジラーのかわいい妹と会って、それから帰ったように思うがその辺はもう彼方の話である。

さて、その週、マグダは「テレビを買えばいい」と言うので、そうすることにした。
マグダが新聞広告を見て、安売りをやっている店に連れて行ってくれる。
しっかり者のスコットランド人としての面目を保ってくれることを期待することにしよう。


 マグダは、広告の店に言って、広告のテレビがどこにあるのかを店員に聞いている。
なにやら話をしているので、どうも不調かとおもっていたが、結局広告のとは別の、しかし、
ちょっと良いテレビを同じ値段でゲットしてくれたのである。
マグダは、このあとの生活でも、いかにうまい買い物をしたかというのを、よくわたしに見せて
くれたものだ。セカンドハンド(中古品)市みたいなのに出かけて帰ってきては、
「この皿、いくらで買ったと思う?」「1どる?」「なんでわかったの???」
なんて事をやっていた。

話はずれるが、このへんは大阪人の発想と実によくにている。わたしも、いくら高級品を持って
いても、その品をいかに安く買ったかのみを自慢の対象とし、もし定価で買おうものなら、なぜ
そうなってしまったかを説明するか、はなから黙ってるかである。
ここにも人間の面白さを思う。地球の反対側で生まれ、太平洋の反対側に住んでる人と、かくも
簡単に仲の良いコミュニケーションが取れるのだ。
しかし、である。これが関西人以外の人が、マグダと接したらどうなるか?
「なんと貧乏くさい人なのか?」
と、馬鹿にするかもしれない。
あるいは、
「この皿、いくらで買ったと思う?」に、
「20ドル?」
と、こたえて、しっかり者のマグダを怒らせるかもしれないのだ。
そういう人が、こんなレポートを書いていたとしたら...

「スコットランド人とけちについて」

なんて話を書いておしまいかもしれない。
結局、人や社会や国なんかの評価というのは、自分の育ってきた環境や、考え方を通してしか
はかれないのだ。これは自戒を込めて書くが、自分が経験したからといって、それが総てだという
考えは決してもってはいけないと思う。それは、あくまで自分というフィルターを通して感じた
結果に過ぎないということである。
これは、国際問題なんかで意見を言ってる「経験者」といわれる人の話を鵜呑みにするなという
事である。

話がそれた。(かな?ええこと書いたような気がする...)

テレビは、マグダのうちに張りめぐらされているケーブルにつなぐと映るようになる。アンテナを
張っても映るようだが、画像は圧倒的にケーブルである。ケーブルテレビの費用はみなで折半して
払うことになっている。
ケーブルテレビだから、いろんなチャンネルがあると思うが、みんなのことも考えて、基本チャン
ネルだけが見られる。もちろん、リクエストを挙げれば入れると思うが、だれもしなかった。

次は電話である。ちょっとあとの話になるが書いておこう。
これは、本来なら簡単に増設できるようだが、マグダのうちの場合、電線を引き込むのにちょっと
した土木作業が必要だということで、なんと600ドル(約5万円)ほどもとられた。
この問題は、みどりさんやラルフにいわせば、「典型的マグダのやることね」ということになるが、
ま、わたしにとって見れば、勝手に電話が欲しくてつけようとしたわけだから、シャーないなと
あきらめた。その1年後、またマグダのうちにお世話になったとき、その回線が下宿人にちゃんと
使われていることに、ちょっとしたうれしさを覚えたものである。
回線の増設工事とともに、回線の使用申請を行う。これは、やっぱりマグダとBCTELという
会社に行って申請をした。カードをもっていれば身分証明となるので、簡単に電話を開設できる。
マグダから聞いた話であるが、BCTELも民営化後良くなったという。それまでは、まさに
独占企業で、日本の親方日の丸企業とおなじように、大変サービスの悪い会社だったらしい。
それが、競合などが発生するような仕組みに変わって、かなりましになったという。

なーんだ。結局日本と同じじゃないか!

このあと、カナダの役所に腹を立てたケネディーの話をきいたりしたが、黒澤明監督の「生きる」
が、世界の人々に名作として理解される理由をそこにみた思いがした。
どこの国の役所も...

ま、日本よりゃマシかもしれません...



さて、勉強をはじめる前に、もうひとつ家庭の話題を書いておこう。
荷物の中にシンセサイザーがあると書いたが、それにはキーボードがついていない。
いわゆる音源モジュールというやつを持っていったのだ。キーボードはかさばるので、現地調達を
考えていたわけである。
ところが、ここに国際的な無知(なんとおおげさな!)が露呈する。
カナダは日本ほど電子楽器市場が大きくないらしく、MIDI(電子楽器の接続規格)なんかが
ちゃんと搭載されている楽器が安くなく、シンセサイザーなんて日本製が5割増くらいで売られて
いるのである。なかなか良いのが見つからないので、楽器屋やデパートをウロウロしている時に、
その後バンドや旅行などで、行動を共にする事になるヨシロウくんと出会うことになるのだから、
トラブルもまたたのしである。
結局、イートンセンターというデパートで、250ドル(約2万円)ほどでMIDIの規格が
ついたヤマハのキーボードを手に入れて、シンセサイザーにつないだり、みどりさんのうちに
持っていって、キリスト教の勉強会の時の伴奏につかったりした。
このキーボードは、買って一月もしないうちにバンド活動をはじめることになり、もうすこし
良いキーボードを買おうとおもっていたら、同居人の台湾人の高校生が欲しいといってきたので、
150ドルくらいで売った。そのあとは、帰国まで音源に接続しないと音がでないタイプのもの
(ローランド製)を手に入れて最後まで使い、帰国の時ラルフ宅に寄付した。

音楽といえば、アコーディオンを買ったというのもある。
なぜか、アコーディオンが欲しくなり探すことにした。今となっては、なぜ欲しくなったかは
まったくわからない。弾けるわけでもないけれど、きっとビクトリアの街に合うような気が
したのだろう。
アコースティックが似合う田舎町といっても、アコーディオンはなかなか無い。この物あまり
日本でもアコーディオンはあまりみかけないくらいだから、いわんやビクトリアをやである。
こういうときは情報がたよりである。マグダを筆頭にいろんな人に意思表示をしておくと、
いろんな話がはいってくる。やがて、やはり音楽の人ラルフからの情報で、ちょっと郊外にある
店に一杯アコーディオンが並んでいたという話が入る。ちょうど通学路の近くだったので、
ヨシロウくんといってみることにした。
ヨシロウは英語を専攻する学生である。学校の交換留学制度を利用し1年間の予定でビクトリアに
やってきた。来たばかりといっても、わたしの100倍は英語ができるので、こういう交渉ごと
なんかについてきてもらうととても心強いのである。しかし、そういう彼も聞き取りが大変だ
と言い続けていた。この辺はまた別の機会に書くことにしよう。いまから、留学しようとしている
ひとの参考になると思う。
さて、アコーディオン屋さんにいってみる。そこは楽器屋であるが、いかにもといった風貌の
おやじさん曰く「西カナダで一番のアコーディオン屋(ヨシロウ訳)」だそうだ。まったく、
縁というかなんというか、仕組まれたように良い店がでてくるものである。
たしかに倉庫みたいなところに入っていくと、中古品のアコーディオンが所狭しとならんでいる。
ひとつとっておやじさんがちょっと弾いた後で、わたしのほうに渡して、弾き方を教えてくれる。
一般的なアコーディオンは右手で鍵盤を弾き、左手でコードのボタンを押す。コードのボタンは、
安いものではなかったり、少なくて対応できる曲が限られたりするので注意が必要だ。
音色を指定できるもの、大きいもの、小さいものといろいろあって目移りするが、わたしの場合、
持ち運びという要素が大きいので、ちょっとくらい機能が少なくても小さくて、音の良いものが
欲しい。
さて、そこに親父さんの息子という人が現れて、映画スティングの「エンターティナー」を
演奏してくれた。この演奏はとてもすばらしく、よっしゃ買おう!というところまではきた。
予算は400ドルくらいまではと思っていたが、アコーディオンはなかなか高く、その予算に
入るものは数個しかない。その中で候補になったのは、中くらいのサイズで音色指定もでき、
かつ左手のボタンもフルにそろっているものと、小型の子供ようで、音色指定はできないし、
ボタンの数も一列少なくて制限があるが、音がなんとも良いものとに絞られた。わたしの場合、
さきも書いたように、持ち運びという要素があったから、小さい方を選んだ。もう価格は
わからないが、ケースをつけて400ドルくらいだったと思う。
このアコーディオンは、その後学校のパーティーや、ボランティアのクリスマス会などで活躍し、
最後の大旅行の時も、たまに弾いて楽しむことになる。イエローストーン国立公園のキャンプ
サイトで静かに弾いていて、しまおうとしたら、子供連れの家族が聞いていたらしく、いきなり
拍手されて「サンキュー」と言われた。もちろんコインなんて飛んでこなかったが、大道芸人の
気分をちょっぴり味わうことができた。

そのアコーディオンは今も手元にある。



この文章を2月ほどサボっている間に、おもしろいことがあった。それは、9月に更新用の文章を
書いていて、もう少しで終わるという時に、落雷による瞬電でコンピュータが落ちて、消えて
なくなったというような言い訳ではなく、(事実です。もう、2度書こうとは思わなかった)
アコーディオンのことである。
ケースをつけて約400ドル(大体当時のカナダドルレートで3万5千円弱)だったと書いた。
先日御茶ノ水を歩いていると、中古のアコーディオンが店頭に出ていたので見ていると、なんと
わがアコーディオンがあった。価格を見ると...8万円以上している!!
シンセサイザーの逆だった。アコースティックな世界では、日本とカナダは逆転していることを
知ったのである。なんとも...いろんなことがあるものである。
もちろん、売ろうなんて少しも思わないが、商売としてはあるかいなとも思った。

さて、学校の話である。

時間を少しさかのぼって、到着から数日後に、入学テストみたいなものがあった。これは、生徒の
レベルを知り、クラス分けをするために行われるものである。
行きは確かマグダに送ってもらったと思う。ただ、もちろん学校まできたらバイバイであり、
あとはまさに野となれ山となれの世界である。

よっしゃ、とうとう学校生活の開始だ!

案内板にしたがってうろうろしていると、日本人とおぼしき人々が何人もいる。わたしは、「留学
したら日本人と喋らない」とかいったポリシーを持っていなかったので、わからんことがあれば
聞いてやろうとおもっていたが、そこは「英語知らなくても教えます」という学校だ。わたしの
ようなレベルのものでも、試験を受けることまではなんということはなかった。

部屋にぞろぞろ入っていくと、試験の説明が始まった。耳を最大限に大きくしたような気持ちで聞く。

「レベルの低い....手を挙げてください」

この言葉を聞いたときに、わたしはすぐに反応した。ここで手を挙げて、全然違ったことでも
ちょっと恥をかくだけだ。レベルの低い人たちのためのコースなら、ちゃんと受けることもできる
だろうから、受けやすいことだろう。よし、ここはひとつ手を挙げてやれ!

手を挙げた人々約10人は隣の部屋に連れて行かれた。
予想通り、懇切丁寧な説明の元でテストが始まった。もちろん、問題のこたえを教えてくれるわけ
ではないのだが、書き方などは逐一教えてくれた。試験の内容は、並べ替えによる英文の作成と、
穴埋めの文法、聞き取りの内容のこたえを選択、それから短文の作成。これは、自分のことを書け
みたいな内容だったと思う。
どうせ、間違ったことを書いても、学校で勉強はできるのだから、なんのプレッシャーもなく、
楽しく書き込むことができた。

さて、テストが終わると判定にはいるのだが、なかなか先生がこない。
テスト担当者の人たちは、

「She is always late」(彼女はいつも遅いのよ)

なんて言ってる。
この遅い先生が、わたしの英語の勉強にとって、とても大きな影響を与えてくれた、
メリールース・マーテル先生なのだが、そんなことはこの時もちろん知らない。
さて、小さくて小太りだが、とても笑顔のかわいらしい中年の先生が、微笑みを浮かべながら
現れた。テレ笑いというのは、西洋にもあるのだろうか。なにやら、和んだ雰囲気の中で、自分の
番がくるのを待っていると、やがて名前が呼ばれた。

先生は、わたしの点数をじっと見てから、こういった。

「あなたはレベル25の中級クラスです」

え!!!なんやて!自分としては、さすがにABCからやる10ではないとは思っていたが、
15か、高くても20と思っていたので、びっくりして言った。

「エーーー!ワタシハ英語マッタクデキナクテ、学校デモ失敗バカリシテタヨ!!!」

「25でついていけなかったら、途中で20に落とせるから、25ではじめてみれば?」

この時わたしが考えたことは、
「落とすという手続きも、英語がわからんのやからできないじゃないか!」

と、いうことだった。しかし、とにかく英語の専門家が言うことにしたがってみるのも良い
だろうと思い、そのコースを承諾した。
これを読まれている方で、ちょっと矛盾を感じた方もいらっしゃると思う。このコース選択の
場で、わたしはちゃんと英語を理解し、しゃべってるじゃないかということだ。
しかし、これは相手が凄いのである。メリールース先生は、信じられないほどわかりやすい
言葉で話してくれたし、わたしのいうめちゃくちゃな英語を、どうにかつなげて考えてくださった。
だから、おそらくちゃんと会話がなりたっていたのだと思う。

ともかく、レベル25という事でコースが決まった。

そのあと、コース登録に自分で行く。
順番を待っていると隣に美人の東洋人が座った。なにか不安そうにしているかとおもったら、
話し掛けてきた。彼女はレベル20で、いろいろわからんことがあるという。
おいおい!いきなりわしより低いレベルの人かいな。しかし、どう見たって自分より英語が
できそうだ。何でこんなことになるのかと思って、そこらの日本人らしき人に聞いてみると、
どうもテストの仕方が良くわからなかったらしい。いきなり聞き取りが始まったとか言ってる。
こちとら勇気一発で手を挙げて、自分のレベルより上らしいコースを受け、他の人々は、
おそらく自分より低いレベルのコースになっている。これが、本当に良かったかどうかは、
今でもわからないが、レベル25で受け持ってくださった先生、つまり、メリールース先生が、
英語の先生としても、先生の良い例としても、素晴らしい影響を与えてくださったので、
ひとまず良かったと思っているのである。

コース登録は、メリールース先生と違って、全く判らない英語のやり取りがあったあと、
とにかくインターアーバンキャンパスで行われることや、何時からなんと言う教室でとかが
わかった。英語はわかりやすい人と、そうでない人がいる。
このあとはいよいよ学費を納める。会計課みたいなところにいって、ならんでいると自分の
番が来た。バスのフリーパスが学生料金で買えるのは、ここだけなので、それも買っておく。
さて、帰ろうとしたら、次の番に並んでいた東洋人の女の子がなにやら困っている。
韓国の人らしいが、まったく何をして良いやら判らないらしい。
わたしのわかる範囲で教えてあげたら、うまく支払いできたみたいだ。

困ったときはお互い様というわけである。

(さて、次回は授業風景などなど。そろそろ、この文章も止め時を考え初めてます)



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