Last update on May.28th,2000



留学について




(このページも旅行の時と同じく、きままにUPしてゆくことにします。目標は...
 一週間に1回くらいですかね...) 2000年2月21日(次のページになります)

1.はじめに

 私は、31才の時に留学をしました。

 会社を早期退職PGMで辞めて、かなりまとまったお金をいただいた事もあり、
何かをせねばという思いが一番大きかったように思います。
勤めていた会社が外資系であったにもかかわらず、英語が全くできないということは、
自分にとってとても大きなハンデであると感じていました。それは、早期退職に乗った
一番の原因とは言えないにせよ、いくつかあるうちの一つであることは間違いありません。

さて、英語の事をはっきりと意識しはじめたきっかけのひとつに、このインターネットが
挙げられます。この素晴らしい世界を覗こうとするにあたり、全く英語ができないという
ことのハンデは計り知れず、嫁もいない身軽なうちこそ一つ留学でもして、英語をちょっと
でも身に付け、せめてホームページくらい読めるようになってやろうと思ったのです。
それが、95年の9月頃。当時やっていた契約社員の仕事に区切りか付くだろう96年春
出発を目標に、留学計画をスタートさせたのです。

さて、どうなりますことやら。

この先に、綴っていくことといたします。




2.留学準備のまた準備

 さあ留学しようと言っても、そうは簡単にはいかない。

なにせ、外国に行くことすら3度目、特に西洋は初めてである。それにまだ、西洋に行くと
きまった訳でもない。漠然とした候補地として、英国の田舎に行きたいという気持ちがある
だけだ。なぜかといえば、アガサ・クリスティーの探偵、ミス・マープルの舞台であるセン
ト・メアリ・ミード村の様な所に住んでみたいという、それだけのことである。

まずは、手始めに情報を集めることにした。本屋に行き、一生縁の無いものと思っていた
「留学」のコーナーに足を向ける。そこには、雑誌を含めていろいろな本があった。アメリ
カ、オーストラリア、カナダといった英語圏の国の本を一通り見る。「成功する留学」とい
う本が一番目をひいたので、イギリス編とカナダ編を手に入れる。アメリカは、まったく
考えていなかった。もちろん、恐いからである。
あと、勝手に候補からはずしたものに、オーストラリアがある。何人かの人には薦められた
が、独特の英語を話しているらしいという話が一番気になった。せっかく真っ白な体?なの
だから、本流を学びたかったのだ。

もう1冊、なぜかドイツ編を買って店を出た。ドイツという国には、我が愛したポルシェの
故郷ということもあり、特別な感情をもっている。あくまで、英語圏留学のあとで金でも
あまればといった感覚で買ったものだ。今となっては、無駄使いとなってしまった。

 留学専門の本を買ってまず読んだもの、それはまさに「留学の仕方」の部分であった。
パスポートがいることくらいは知っているが、学生として行くなら「学生ビザ」がいるだろ
うし、その取り方や有効期間、費用、学校の申込方法などまったくわからないのだ。
「成功する留学」には、とてもわかりやすくそれらの内容について記されていた。イギリス
やカナダの学生留学ビザは1年。学生ビザでは仕事ができない。だいたい申請には2ヶ月程
みておかねばならず、また現地で就労なく生活できる証明として、銀行の預金証明が必要な
どと書いてあった。また、学生ビザをとるためには、現地の学校の入学許可が必要だという
こともわかった。つまり、ビザをとるためには、学校を決めておかねばならないということ
なのである。その上、学校によっては入学の申込締め切りが何ヶ月も前に設定されている為、
来年の話だからといってそうそう安穏としてはいられないということもわかった。

では、学校への申し込みはどうやってするのか?これが大問題であった。当たり前の事なが
ら、申し込みは全て英語で行うのである。それができないから留学するんやんけ!と、思う
のが当然であろう。申込日本語可なんて学校は見当たらず、のっけから途方にくれてしまっ
たのである。

 ところが、やはりそこは商売。本には「留学手続き代行サービス」なるものの案内が出て
いた。費用は出発予定日までの期間や学校の種類(公立・私立)によっても違うが、大体
3万円くらいからあるようだ。出発までの期間は、もちろん長いほうが安い。また、州立や
国立などの公立大学などへの申し込み代行料は、その煩雑さからか私立にくらべ倍額近い。

ともかく、良いものがあるものだとばかりに、「成功する留学」に載っていたジオクラブの
無料留学相談に出かけることにする。ジオクラブでは、このような相談から事務代行や保険
の斡旋まで、留学に必要な作業についていろいろとサポートをしてくれるので助かる。

この時点で、留学先はカナダに決めようとしていた。なぜなら、イギリスへ留学していた
友達が帰国し、いろいろと教えてもらった時、どうも黄昏のロンドンよりなんて話より、
もっと黄昏ているという事を聞いて、大自然の国カナダの方に気持ちがよったからである。
また、カナダは極寒の地であるという評判だったのに、本を買ってしらべてみると、西の
端は気候も温暖で、雪もあまり降らないらしいし、それどころか平均気温は日本を上回る
こともあるという。こうして、カナダ西海岸が大きくクローズアップされてきた。

ジオクラブの相談員の方にも得意分野があるらしく、電話の予約受付で「どちらに行こうと
お考えですか?」と聞かれたので「カナダです」と答えておいた。相談当日、応対して戴い
た相談員さんは、とても丁寧にいろいろなことを教えてくれた。留学にかかる費用、保険の
種類と斡旋、ビザの取得法などといったことから、カナダ西海岸の学校をまわられた感想や
公立・私立の違いまで、これらが無料とはありがたいサービスである。
思わず、全部お任せのコースに申し込みそうになったが、もう少し学校・場所などについて
詳しく調べたかったので、ひとまずは退散することにした。

 「何をいってるんですか!!そんな業者に払う金があったら、一日でも長く外国にいる
べきですよ!!」

これが、先に述べた英国帰りの知り合いに「業者を使いたい」ともらした時の、レスポンス
である。確かにそうだ。今からいろいろ一人外国で苦労するに違いないのに、この日本で
他人任せにしておいて良いものだろうか?
それからしばらく説教をうけている最中、心のなかでは「自分でやる為には?」という実行
計画を作成しはじめていた。英語の問題は、幸い商社の外国部に勤務している友達が近くに
いるから、申込書などは昼飯もの?だし、学校の検索も「成功する留学」で足らない部分は
インターネットという強い味方がいるではないか?

帰宅して早速PCに向かい、いくつかの検索エンジンに「CANADA」「COLLEGE」
「ESL(ENGLISH AS A SECOND LANGUAGE 大学などではこの名前で、非英語圏の人の為に
コースが作られている)」といった言葉を探させた。いろいろな学校がESLコースを開いて
いることがわかったので、カナダの西の端にある「ブリティッシュ・コロンビア州」を中心
にインターネットを探索し始めたのである。




3.留学準備


 ジオクラブで紹介して頂いた学校の中に、「ノーザンライツ・カレッジ」があった。日本語
流に言えば、「オーロラ短大」といった所だろうか。ブリテッィシュ・コロンビア州の北東に
位置するフォート・セントジョンという町にあるコミュニティー・カレッジである。コミュニ
ティー・カレッジというのは公立の短大といったところで、留学生・移民などを対象とした
ESLコースをはじめ、住民対象のいろいろな講座、そして一般短大としての機能等をもった
学校である。2年の一般コースを終了すれば、ユニバーシティと言われる大学への編入も可能
なことから、小回りの効くコミュニティー・カレッジでまず勉強し、卒業後大学を目指す学生
も多い。と、まあこんな事がかけるのもしばらく暮らした後だからで、出発前に知っていた事
といえば、「州立の短大」ということくらいだった。
さて、話をノーザンライツ・カレッジに戻そう。「オーロラが、見たい!!」というのは、
人生の大きな夢の一つである。ジオクラブの相談員の人いわく、フォート・セントジョンでは
一年の大半でオーロラを見ることができるそうだ。なんでも、オーロラの観測には北へ行けば
良いというのではなく、ポイントがあるそうで、まさにフォート・セントジョンはそういった
場所らしい。「ノーザンライツ」という名前も、ただの客引きでは無いようである。

 早速、インターネットで検索を開始する。いろいろなキーワードで探したが、出てこない。
どうも、インターネットのHPが無いようである。これは大きな減点だ。折角学校に戻るので
あるから、コンピュータの環境くらいきちっとしていてほしい。

 ノーザンライツを検索中に、やたら目に付く学校があった。「カモソン・カレッジ」である。
何せ、綴りがCから始まるということで、いろいろなリストの先頭付近にやってくる。それに
所在地が「ビクトリア」というのも面白い。調べたところによると、ビクトリアはブリティッ
シュ・コロンビア州の州都である。そして、暖流の流れる海の島にある為とても気候が温暖で、
雪もほとんど降らないという。町は、英国よりも古き良き英国を残していると言われ、花咲き
みだれる庭園都市として世界の人々に愛されている...
ビクトリアに対する好印象を胸に、カモソン・カレッジのHPにアクセスする。もちろん、
すべて英語であるが、ESLという言葉を頼りに検索する。「成功する留学」にもこの学校は
紹介されていたので、ESLのコースが存在することはわかっていたから、あとは情報をどれ
だけ集められるかである。
カモソン・カレッジのHPで、まず目についたのが時計台である。「時計台=大学」という
概念は、自分の母校が大変美しい時計台を持つ関西学院大学であるから、心の中に染み込ん
でいる。この学校の時計台も、とても古風で美しい建物のようだ。まず、それが気に入った。

ESLの内容を探しているうちに、この学校について次のような事がわかってきた。

・ESLは、いくつかのコースにわかれている
・費用は、4ヶ月で約3000カナダドル
・申し込みは3ヶ月前までに完了しなければならない
・現地のテスト結果で、コースを選んでくれる
・ホームスティの紹介をしてくれる
・入学には学生ビザが必要である

さて、授業の内容である。
ESLのコース案内を丁寧に見て?いくと、それぞれのコースのレベルが記されていた。
当然、一番簡単なコースについて重点的に調べる。なにしろ、ABCから教えてもらわねば
ならないかも知れないからだ。簡単だといって現地に行ってみれば、てんで理解できずあとは
帰国だけなんてまっぴらごめんである。いろいろな案内に、「ビギナーレベル」なんて書いて
ある事があるけれど、なにしろ英語なのだ。ここまで書いてきての「告白」であるが、私の
「英語恐怖症」は半端ではない。小学校4年の終わりに、母親が言った。「あんた、大学に
入るのは大変よ。今、苦労するのと、高校で苦労するのとどっちが良い?」私は、この頃から
「好きなものは後で食う」性質だったので、当然「今」と答え、翌年から塾通いが本格化し、
中学入試に受かり、10年一貫教育の関西学院に入学した。
当然もう、苦労するつもりなど毛頭無い。あとは、「好きなものを食う」だけだったのだ。

中学・高校と英語の成績は悲惨を極め、高校3年ではついに「1」。大学に進学のときに
教授による面接があるのだが、「英語1でも大学にこれるの?」「英語が必要な心理学みたい
な学問は絶対とらないほうが良いよ」などと言われ、おのずと民俗学などのゼミをとることに
なったりもした。大学で必要な外国語科目8授業16単位は、すべて「可」でありもちろん
ほとんどが再履。4年かかってぎりぎりクリアした。もちろん、教授の温情以外の何者でも
ない。
先に、「苦労するつもりなど毛頭無かった」と書いたから、いかにも「勉強しなかった」と
言いたげに思われるだろうが、英語には本当に苦労した。関学には中学から留年がある。
だから、そう簡単に欠点をとるわけにはいかない。それに欠点は60点未満だったから、
まじめに勉強しないとついてゆけないのだ。数学もできなかったが、これはコンピュータを
独習することで逃げられた。しかし、英語だけはどうしようもなかったのである。社会人に
なった時点で、英語は「できない」ではなく「知らない」と言っていたが、これも本当の事
だった。

閑話休題。
と、いうような「英語スキル0」の私が留学しようというのだから、恐怖心や警戒感で一杯に
なるのは当たり前である。「ビギナーレベル」への妙な反応もおわかりいただけると思う。

「カモソン・カレッジ」のESL初級コースである「ESL010」の紹介には、次のように
記されていた。

(と、ここまで書いたはよかったが、今のカモソン・カレッジのHPを見てみたら、全然内容
が変更されていました。以下は、当時の案内書から引用しました。現在の内容は次のアドレスへ!
 
http://ccins.camosun.bc.ca/divisions/registrar/calendar/programinfo/apfn_esl.html#esl)

 "Beginner (ESL 010 and 015): Students at these levels have little or no knowledge
of English. Emphasis is on listening and speaking skills, together with recognitions
to understand what they hear and see and to respond at a basic level."
				         (From Camosun College Calender 1995-1996.)

単純な私は、この「no knowledge」という言葉に感激した。まさか、ここまで
書いておいて、「あんたには、よう教えられまへん!」とは言えないだろう。

さぁ、学校は決まった。申し込みしなければならないので、英語のできる知り合いを呼ぶこと
にしよう。

「わし、留学することにした!ちょっと手伝ってくれ」「OK!」

持つべき物は友である。彼の仕事は、紙の貿易であり、こういった申し込みなんてお手の物。
そして、さっそく車でやってきた彼と作戦会議の開始である。

「インターネットで見つけたんやけど、電子メールのアドレスが書いていないから、FAXを
送ろうとおもう。どんな文章を書けばいいのかな?」「まずは、案内や申込書を送れという
事を書けば良いんやろ。」「じゃ、このワープロに打ってくれ!」「ふむふむ」

彼は、即行でなにやら打ってくれた。残念ながらその名文は残っていないのでご紹介できない
けれど、私にとって神業以外の何者でもなかった。

国際電話でFAXは送れるものやろろか?これが、次の難関であった。ともかく、FAX番号は

HPから穿り出していたので、手元にあるのだが、長年FAXも含めコンピュータのネット関係
で仕事をしてきたというのに、そんな事も不安になるのだからしかたがない。やってみるのが
一番と、まずは電話をかけてみることにした。ところが...
カナダの国際電話識別コードがわからない。これは、どこにも書いていない。ネットで検索
してみたが、うまくヒットしない。しばらく、無駄な時間を費やしてふと思い付いた。

「104で聞いてみよう!」

104からKDDを聞き、KDDに教えてもらった。答えは「1」アメリカと同じである。
さっそく、頭に「001番KDD!」をつけて、1プラスエリアコードそして電話番号で
かけてみる。初めての国際電話だ。聞きなれない呼び出し音がしばらく鳴ったあとで、カチャ
という音ともに耳慣れたFAXのキャリアーが聞こえてきた。大丈夫そうだ。
今度は、PCのFAX送信ツールから電話をかけさせる。これも、一発でOK!ついに、
案内書請求のFAXが海を渡って飛んでいったのである。

彼には牛丼とトン汁をごちそうし、神業に感謝した。



(再開に際してのおわび:
 もうこの項目を書きつづけることが困難なほど、記憶は遠いところへといってしまいました。
 しかし、いちど書き始めたからにはやはり最後まで行かねばと思います。
 どんどん不確かな項目が増えて行く反面、無くなっていた資料などもでてきているので、
 楽しく書き進めたいと思っています。99年1月4日34歳の誕生日、この留学準備から3年後
 記す。春名大介(Daimaoh))



それでは、ここに送ったFaxの全文を載せようと思う。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

From Japan!!

Ms.Camosun college

Dear sirs,
I am now considering visit your country to study English,
and also very intersted in studying ESL course at your 
college that I get information from  guide booklet and 
Internet .
If possible I would like to enter the course starting
 May 1996, closing date for application will be 
January 31,1996. If I can apply this course now, please 
send me application form for admission and detailed 
information guide.         
Although I graduated university in Japan, worked as SE 
at IBM for 7 years and resigned and I am now 30 years old, 
I can not use English completely. To tell the truth, 
I asked my friend to translate to English from Japanese 
letter that I wrote original.    
Please inform at E-mail of Internet if you need charge to 
send  some data,and also advice how to pay it.
If you can not accept my application , please reply at 
E-mail by return.
 
Finally, please advise how to apply admission by Internet 
if possible.
                                Sincerely yours,
	
     			                     Daisuke Haruna
              	     			        517-17-B202
					Takatsukashinden,Matsudo City,
		   				Chiba-pref.Japan.
				 			Phone:473(92)6526
			   		 Internet E-mail: haruna@ibm.net

	  		      (Continued to Page2)Ms.Camosun college
				(Address in Japanese)
                   ----------------------------------------
			   松戸市高塚新田xxx-xx-xxx
			       春名 大介 行き
                   ----------------------------------------

P.S.

Merry Chiristmas!!
I remember university I graduated, that was established 
by an american missionary since 1868, when I look a picture
 of clock tower at your colege. So I look forward to 
learnig English under  this similar beautiful tower.  

Message from translator(N.Takase):
I translated above message fm Japanese letter to English, 
because  he really want to enter your college and he 
treated me to tasty breafast.(What a charitable Man!!)  
but I am only Japanese, if you suggest to apply admission 
to your college for me, please also send me guide booklet . 
Just for your reference, I graduated same university as him.

							Thank you.


私が書いた文章を、友人の高瀬誠重氏が訳したものだが、今見ても意味不明...じゃない、名文だと
思う。良く書いてくれたものだ。


 さて、Faxの返事を今か今かと待つ日々が始まった。なぜなら、カモソン・カレッジの
入学申し込みはコース開始の3ヶ月前までに完了している必要があり、希望するコースの開始日が
5月初めだったからである。つまり、1月末までに所定の手続きを完了していなければならないのだ。
ここまで、時間の概念を省略して書いてきたので、これだけでは何のことかおわかりいただけない
と思う。このFaxを送ったのが95年の年末である。申し込み書の郵送にかかる日数などを考え
れば、ぎりぎりのスケジュールだったわけである。
だいたい、郵送に2週間はみておけと周りの人々に教えてもらっていたから、最低でも1月中旬には
申込書の発送が完了していないといけない。
年を越し、しばらくしたある日の郵便箱に、ちょっと異質な白い封筒が入っていた。これこそ、まさに
申込書だったのである。
早速、牛丼じゃなかった、神業の彼を呼ぶ。

「おぃ!申し込みが来たから応援頼む!」
「ええよ!」と、彼は言ったし、そのとおりここに書いては見たが、かれの心境はどんなだったかは
分からない。しかしながら、またしても、牛丼とトン汁が彼へのお礼である。
先に書いておくが、彼はそこまでしてくれた上に、旅立ちの時、餞別までくれ、また、出て行く家の
便所掃除までしてくれた大人物である。彼の協力なくして、この話はまったくなかった。

さて、ファイルされている日付によれば、96年の1月11日に「申し込みが届いた」由の返信Fax
を送っている。この内容がとても新鮮なのでこれも載せておこう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
From Japan!!
Ms.Camosun college

Dear sirs,

Thank you very much for your quick responce.
I just received your college's infomation & application form &.
I'd like to fill in this form soon,and forward to your 
colledge. 
			  					Thank you.

    					Daisuke Haruna
                               517-17-B202
					Takatsukashinden,Matsudo City,
					Chiba-pref.Japan.
				 	Phone:473(92)6526
			            Internet E-mail: haruna@ibm.net

         Kwansei Gakuin UNIV.  (I was graduate in 1987)


当時は大まじめに、このカラー写真をFaxで送ろうとしたのである。当然、先方では真っ黒な画面が
いったことだろう。この分野は得意としていたはずなのに、妙なことをしていることを見るだけで、
当時の舞い上がり方がわかるというものである。




 さあ、申込書が来た。

 この申込書そのものは、もう手元に残っていないし、残念ながらワープロで打つわけにもいかなかった
ので、何を書いたかももうわからない。大体のことを書けば、もちろん住所氏名年齢性別といった、
基本項目。最終学歴。それから希望するコースや趣味についてなどだったと思う。最終学歴については、
母校の在学・卒業証明書が必要なので、さっそく当時まだ阪神間にすんでいた母に頼んで、学校にいって
もらった。また、50カナダ・ドルの入学手続き費がいる。これは途中でキャンセルしても返還されない
お金だ。そして、これを送る手段がなかなか手間なのである。いわゆる送金小為替といわれるものを銀行
にいって作ってもらうのだ。50CAドルといえば、当時1CAドル(今も偶然ほぼ同じだが)80円
だったので、約4000円の額面であるが、たしかこれに2000円からの手数料がかかったように
思う。また、銀行でも本店作成扱いになることが多く、日数も数日必要だった。なにせ、早く発送しな
ければならない私には、なかなかイライラさせられる仕組みである。
そろえるべきものが全て揃った17日ごろ、いよいよ発送する。なんせ早く送らねばならないので、
エクスプレス便を使ったと記憶している。郵便局の人に、「書留速達といっても、向こうの郵便事情が
あるからねぇ...」と、脅かされた。まったく外国に無知な奴に罪な一言だ。

 送ってしまえば、あとは待つだけだとはいかない。いろいろ外国暮らしの準備も始めなければいけない
し、カナダ大使館の場所を調べて、学生ビザの申込書を取ってこなければいけないし...おっと、
忘れていた。カナダに留学するためには、基本的に学生ビザが必要となる。カナダの留学ビザを持って
いると、カナダの公立学校への入学が可能である。期間は1年で、延長は当地にて可能。ただし、
カナダで働くことはできず、取得に際しては銀行残高の証明かスポンサーの証明が必要である。つまり、
金を落としてちょうだいというわけである。申請に必要な費用は忘れたので、また調べておくとする。
この学生ビザの申請に必要な書類のひとつに、留学先の学校の「入学許可」がある。つまり、学校が
きまっていないと申請できないのである。そのため、この申請も、カモソン・カレッジの入学許可書が
送られてくるまで待たねばならないのである。ただし、このビザは入国時にもっていれば良いので、
この「許可書待ち」状態が1月の終わりであるから、あと3ヶ月の余裕があることにはなる。
(後記:「忘れてた」のは本当で、良く読んでみると前のほうで書いてますね。ごめんなさい。)

 さて、ちょっと話題を変えることにしよう。英語をどうするかである。
ともかくコンピュータの世界で食べていた私の英語は、大学時代に比べるとほんの少しだけ進歩した。
なにしろ、BASICであるとかINPUTであるとか、意味もわからぬ?まま横文字を多用していた
のだから。え?BASICがわからないって?さすがにその意味くらいはしっていたのではと思いたい
が、定かではない。なにしろ、10年一環教育の関西学院で、10年間のほほんと暮らしていたので、
英語など「わからない」のではなくて「知らなかった」のであるから。
関学の名誉のために書いておくが、私の高校卒業時の英語成績は「1」であり、特別できない生徒で
あったことは間違い無いのである。私が大好きで、ほとんど尊敬すらしている漫画家「いしいひさいち」
氏のマンガに、就職活動にやってきた学生に受付嬢が「アポイントは?」と聞いて、「アポ?アポ?」
と答えた学生を横目に「アポイントもわからない学生が来られてますが」と取り次いで、学生が泣き
ながら帰って行くというものがある。私が就職の年、何かの時に友達から「おまえアポイントとったの?」
と聞かれ「アポ???」と、まったく同じ反応をしたのである。
そんな私が、コンピュータ会社で働くうちに、当然のようにいわゆる「業界用語」を覚えるといった
形で、英語が少しずつ進歩したのは当然のことだろう。後日談になるが、カナダで出会った多くの若手に
「ダイスケさんは変な単語ばっかり知ってる」といわれたのも、さもありなんである。なにせ、基本が
if then else の世界なのだから。
(後記:ここのくだりもエピソードこそ違え、ほとんど同じ事を前に書いてますな。ダブルエラー...
 ま、ほんと英語できなかったということで、駄目押しで良い...ことはないですね。ごめんなさい。)

ところが、その私が準備した英語といえば、「中学生の英単語」と「英語長文の解読」みたいな本を
買って眺めただけであった。いつも留学の話がでて、「英語の勉強してる?」と聞かれたら、
「それをやりに行くのや!」と、豪語していた。家にやってきた友達が「中学生の英単語」を手に取り
「ひとつテストしてやろ」と言って「「置く」は英語でなんや?」「・・・・・」「おまえ、「置く」も
わからんのか?PUTにきまっとるやろ!」
これにはちょっとショックを受けたが、まぁしょうがない。もう時間があるわけじゃなし、元からの
方針を貫くことにしよう。



 入学許可を待つ間、カナダ大使館にいってビザの申請書を取ってこなければいけない。
申し込んだコースは5月の頭からだから、3月前の申し込みという条件はすでにクリアしてるつもり
なので、もう時間の垣根という意味ではビザだけしかない。それも、持って行くことができれば良い
というだけである。あっという間に2月を迎えていた。大阪では、1、2、3月の事を「1月はいぬ
(行ってしまう)、2月はにげる、3月はさる」と表現する。(これが大阪独特の言葉であると知った
のは最近だ。考えてみれば「いぬ」なんて言葉は典型的な大阪弁である。)これを書いている現在も
2月の真っ只中であるけれど、まったく年初から今まであっというまだった。留学した1996年の
年初もまったく同じ按配に進んで行ったと思う。
さて、何せ初めて大使館というものに行くので、若干緊張する。カナダ大使館は、当時勤務していた
東京飯倉からタクシーでちょっとの赤坂にあったように思う。ごめんなさい。これも覚えていない。
ただ、銀色に輝く建物には入り口が見つからず、しばしうろうろしたことは覚えている。なんか、
側面にあるエスカレーターを使って上の階にいき、そこから「査証」なんて事が書いてある階へと中の
エレベーターで向かったと思う。
昼休み中みたいで誰もいない。とりあえず、学生ビザの申し込み書と、その記入方を書いたもの、それ
からカナダでの制約事項などが書かれた冊子をゲットして帰ってきた。しかし、役所というものはどこの
国に行ってもああいう冷たい雰囲気があるものか。ま、中にいる人は、ともかく「とんでもなく英語の
できる人」であることは間違い無いのだから、その時の自分の立場としてはただ尊敬できる人々なのだが。
役所のもつ特殊性なのだろうか?

 さて、行きはタクシーでいった大使館ではあるが、帰りは歩いて飯倉に向かう。先の小冊子を立ち読み、
いや、歩き読みするためである。これが英語だったか違ったか、もう記憶に無いし、もちろん本編もない。
たしか英語だったように思う。内容をざっと見回して感じたことは「要は働いちゃいかんちゅうことやな。」
というものだった。あと、申請書の書き方の方では、「返信用封筒を準備すること」ということが新しい
くらいで、その他は「成功する留学」に書いてあるとおりであった。ただ、申請書の項目に「どのくらい
費用を使うのか」という、いわゆる予算の項目があり、それと対応するかのように「現在の預金証明額」
の項目があった。つまり、1年の申請をするならそれなりの予算をたて、それを十分満たすだけの預金を
もってこいというのだ。

 なさけない話であるが、手取額でゼロが7つに達する寸前ほどの額をもらっており、その後の2年間、
以前以上の収入を得ていながら、ポルシェを乗り回したつけで、銀行にはもう予算を満たすだけの額面が
残っていなかったのである。ちょうどそのとき、いわゆる月給制ではなく、ちょうど収入の狭間だった
事もあり預金が200万を切っていたのだ。どれだけあったら認めてもらえるか知らないので、不安も
大きい。それこそこれは、会社設立時の預金証明と同じ「見せ金」であるから、それこそ誰かに借金し
ようかとも思ったくらいだ。そんな状況だから、ほとんど命の次に大事だったポルシェ928を、悩み
ぬいた上手放す決心をしたのもこのころである。借金しなければいけないのに高級車はない。今でも
この時の心境について、「愛する嫁さん甲斐性なしからトルコ風呂に売った気持ち」と冗談半分に表現
している。

予算を足してゆけば、申請のためには250万円と書かれた証明が必要となる。銀行にはそれだけの額は
無い。さて、どうしたものか?

前々からこういった状況のときに、「流れ」というものを感じることがある。結論を言えば、ふって沸いた
というべき入金があって「なんじゃ?」と思っていたらこれが間違いで、返さなければならないという。
それならばと、返す前日の証明を取ってやれと銀行に向かったわけである。見事成功!
あとはもう一回カナダ大使館に行って申請書を出し、待つだけである。

なんども書くが、神様、仏様は絶対いる。今ここで書くのは変だけれど、このカナダ行きは、まったく
操られるように進んで行った。そして、今、自分の人生にとって、大きな大きな経験となっている。
「流れを知る」あるいは「つかむ」ということに、これからも気をつけて行きたい。



 ビザの申請書類として足らないものが、ひとつあった。そう、カモソン・カレッジの入学許可書である。
こればっかりは、待たねばならなかったが、あっけなくやってきた。
生まれて2度目に受けとる国際郵便(一度目はもちろん申込書)を、おそるおそる明けてみると、そこ
には...英語を忘れてしまった...ともかく、「入学許可書」と書いた紙がはいっていたのである。
以前送った学校への申し込みには、「3ヶ月のコース」として書いたのだが、入学許可は「1996年
5月から1年間」となっている。3ヶ月としたのは、ビクトリアにはそのくらい住み、その後は、もっと
田舎に住んでみようと思っていたからだ。しかし、考えてみれば、カナダで勉強しようとしてるのは、
1年以上なわけだし、ビザの期限は最大期間でもらいたいのだから、1年の許可書を書いてくれた事で
申請上の問題がなくなったのである。これは、ありがたかった。
(後記:入学許可書= a letter of acceptance)

 さて、入学許可書には「ホームスティ」の案内もついてきていた。いくらなんでも、こういった申し込み
まで「神業」を呼ぶわけにはいかんと思ったが、「自己紹介」などという欄があるから困る。やっぱり、
「神業」氏を呼んで、ちょっとだけの「自己紹介」を翻訳してもらう。写真を同封し、「良い人にあたり
ますように」と念じながら、投函する。このころになると、今後のことも考えて「神業」のお世話には
できるだけならないようにしようと考え始めた。そして、自ら書いた初めてのレターが海をわたるのは、
ホームスティ関連の郵便についてきた学校のホームスティ担当の名刺に、電子メールアドレスが書いて
あったことから、E−mailをおそるおそる書いたのが最初となる。

まだまだ、先は長いようだ。

話をちょっと戻す。
ホームスティの申し込み書には、どんなことを書いたについて記憶の糸をたどってみるとする。
先に書いた「自己紹介」と写真のほか、ペットは大丈夫か?とか、子供がいたほうが良いか?とか
細かいアンケートがついていた。わたしはエビカニアレルギーなので、「特別な要求」といった欄に
それを記したが、他には犬でも猫でも子供でもなんでもこいだったから、特に記憶に残ることを
書いた覚えはない。
さて、今回もわたしが送った自己紹介をここに記しておくとしよう。これは、2月24日に書いている
から、出発の約2ヶ月前である。

I want to introduce my very short history.
Please refer attached some photograph just for your reference.

1. Wedding party of my friend I usually play actor such as Singer, Comedian, Master of ceremonies. 

2. My dream in childhood was owner of car 'Porsche 928'. I finally bought the car when I got the
 severance pay from IBM. I drove 60,000km.
But to study English in Canada, I am poor, so sold it. I was sad to sell my own car. 
If I can enjoy Canadian life, I can forget the sadness.

P.S. Frankly speaking, this sentence was written by my friend who can use English very well.
Of course I cannot even write English.
(So this words was written by...)
 
いま読んでみると、ただの写真の紹介である。何の為に最後の一言を書いたのかは、意味不明だ。
きっと「英語もかけないのに  my history を英語でかいてるやんけ。」という矛盾について書いてるのだ
ろうと思う。
写真は残っていない。

ビザの話だった。

書類さえそろえば大使館にいって、ガラスのしたにちょっとだけ隙間のある、ものものしい仕掛けの
差出口に、お金(1万いくらかだったと思うが、今の料金はしらない)とともに必要書類を差し出せば、
それでおしまい。返信用封筒に、自分の名前を書いて切手を貼っておくことを忘れずに。

あとは、またしても待つだけだ。このあと書くことは決まってる。「しばらくすると、大使館からの
封筒が送られてきた」である。ちょっと、付け加える文があるとすれば、「汚い自分が書いた宛名付で」
となるだろうか。ともかく、ビザはゲットした気分になった...

ん?それはどういうことだ?

汚い字で宛名が書かれた茶色封筒に入って送られてきたのは、ビザではなかったのだ!!!!!



 英語の読めない私にはちょっと難解だったが、「こりゃ、ビザではないよ」と書いてあるのは
なんとかわかった。その頃は、もう高瀬氏を呼び出したりせず、自分でやろうとしていたので、
辞書を引き引き読んでみると、こんなことが書いてあった。

「これは、正式な学生ビザではない。正式なビザはこの紙を持ってゆき、入管管理事務所にて受け取ること」

つまり、ビザの予約券みたいなものだったのである。とうとう学生ビザをゲットできることになったのだ。

 ビザの期間は申請どおり一年となっていた。少なくとも一年間は、カナダに学生として滞在できる訳だ。
ついに、留学に必要な書類はすべてそろったわけである。

さあ、今度は旅や生活の準備に入ろう。
カメラやビデオ、パソコンもノート型を手に入れたい。シンセサイザーを持っていって、趣味である作曲も
やれるようにしたいし、辞書を持ち歩けないから電子辞書も欲しい。他にはどんなものがいるだろうか。
住まいの事は、ホームスティの申請をしてるから、カモソンカレッジまかせである。良い家庭に恵まれる事を
祈るのみだ。それから、飛行機代がどれだけ必要なのかも知らないし、国際免許なんかもとっておかねば
ならない。そういえば、家の解約もしなければならないし、車はどうしようかなど、大きな懸案もある。

車といえば、このとき私は2台の車を持っていた。1台はなんとポルシェ928S4という5000ccの
スーパーカーだった。私にとってこの車は、30ヶ月で6万キロを共にしてきたいわば恋女房。
北海道を二周ほどもしたし、山の中、後部座席を倒してトランクルームで寝るようなことも何度もした。

また、この車は、独身時代だからこそできる冒険と、会社を辞めないための借金つくりという買った理由が
あったのだが、リストラによる早期退職制度が買ったその年の年末に出て、借金をすべて返してなおあまる
という状態となり、速攻で会社を辞めてしまったという、思い出も思い入れも深い奴だったのである。

もちろん、できれば売りたくない!

でも、お金が足らないのである。見せ金もラッキーで作ったような奴に、ポルシェを持っている資格は無いのだ。

知り合いを頼って、ポルシェに興味を持っている人を探してもらった結果、彼女のもらわれて行く先が決まった。
その日、エンジン始動から最後の駐車場出発シーンを、自分で運転しながらビデオを撮った。洗車を入念にして、
ついにキーをその人に渡した。「どうしてもスペアキーだけは欲しい」とお願いし、キーをひとついただいた。
このキーはいまだに私のキーホルダーの一員である。

この一件は、いまでも留学一連で起こった出来事の中で、もっとも悲しい出来事のひとつだ。何を馬鹿な奴だと
いわれるかもしれない。しかし、そのときの心境は、「美人の恋女房を甲斐性のない男が泣く泣く遊郭かヒヒ爺に
売ってしまったよう」というのが偽らざる気持ちなのである。
その後のカナダで生活も楽しかったが、そのなかでなんと3度も、彼女を取り戻してシフトをローに入れて発進し、
「やっと取り戻したぞ!」と叫ぶ夢をみた。

いつか正夢となってほしいと思っている。



ちょっと読み返してみると、ポルシェを持ってた話は過去二回も書いていて、遊郭のなんのということも書いて
いた。連載?ちゅうものは難しいものである。まぁ、逸話が単なる思いつきでないということもわかっていた
だけるかと思う...が。

さて、なにを買ったかを書いておこうと思う。

1.ノートパソコン
2.電子スケジューラー兼辞書(ザウルスという奴ですね)
3.ビデオカメラ
4.一眼レフカメラ
5.航空券

などが高いものである。
服などは、カナダに行くといっても西海岸は普通の格好でよいとのことだし、冬服も日本で着ているコート
の類だけは持っていくが、それ以外は現地調達ということにしていたので、買うことはない。
残りはいわゆる常備薬くらい。ホストマザーへのお土産を考えていたら、そのときにお邪魔していたお客
さまが、選別としてお土産用の扇子をくださったので、それを持っていくことにした。感謝!

高額商品の使用実績などや、あればよかった!というものについてはおいおい書いて行くことにするので、
お楽しみということにさせていただく。ただ、航空券だけは、ここに記しておこう。
なにせ、海外旅行などにはまったく縁のない生活をおくってきたので、どうすれば航空券をゲットできるか
という問いに、「航空会社にいく」か「交通公社(JTB)」なんて答えしか当時は返せなかった。
「どこに行ってもそんなめちゃくちゃにはかわらんやろ」と思っていたので、JTBの門を叩くことになる。
まず、普通に航空券を片道で買おうとしたら、なんと20万円近くもする。なんのこっちゃ?高いもんやね。
さすがに、店の人に相談してみると、あこぎな人ではなかったようで、いろいろな安売りチケットを紹介し
てくれた。結局3ヶ月有効の往復券で、10万ちょっとという奴を手に入れることになる。3ヶ月後、挫折
して帰国ということも考えられるので、ちょうど良い按配である。当時はその券に満足していたが、探せば
世の中にはもっともっと安い券も存在するので、探すことが肝心だ。季節によっては、7万円くらいで往復
できたり、最近はもっと安いのも見かけた。

さて、わたしが手に入れたのは、ノースウエスト航空のシアトル経由ビクトリアというものの往復券である。

この券のおかげで助かったことがある。
それは、最近のアメリカは、トランジット(乗り換え)の為の一時入国ですらチェックが厳しく、片道という
券では入国すら許してくれないケースがあるそうだからだ。たしかに、一時帰国で日本に帰るとき、シアトル
経由のルートで帰ろうとしたら、ちゃんとチケットを見せているのに、「どこに行くのか?」などとうるさく
て、なかなか通してくれなかった。最終の帰国の時も、一年有効の往復券を買って、またカナダを訪れる事が
できるようにしようとしたら、「アメリカ経由だと、入れないかもしれない」と言われた。
もし、初めてのアメリカ入国時、片道チケットをもっていて、いじめられたりしたら、どうなっていたことか。
考えただけでもぞっとする話である。アメリカと言う国は、銃のことも含め、ちょっと変なところがあること
を忘れてはいけないのである。

つづいては、いわゆる渡航準備の手続き関係である。

1.パスポート
2.国際免許
3.住民登録

パスポートは持っていたので、ここでは特に書かないが、初めて取得するときは戸籍謄本が必要だったり
するのでご注意を。
国際免許は、免許を持っていれば(あたりまえや!)簡単にもらえる。免許を更新するときにいく、免許
センターに行って、住民票(いるはず。この辺わすれた)と一緒に申請すればすぐもらえる。ただ、ちょっと
注意が必要なのは、国際免許にサインする時はローマ字でサインすること。パスポートと同じサインと
考えがちだが、なぜか国際免許の規則として決まっているそうである。わたしは、見事に間違えた。
さて、住民票をもって国際免許なんてかいたが、海外に転出するわけだから住民登録も変更せねばならない。
短期の渡航ならば住民票はそのままにできるが、1年を超える滞在が考えられる場合、海外転出の手続きを
しておけば、市区町村税などの税金を払う義務がなくなるのである。これは、やっておかねばならない。
もちろん、日本人の権利を捨てるわけじゃないから、国籍はそのままである。

さーて、準備は着々と進んでいる。退職の手続きと、仕事の清算も会社の人々の協力もあって順調だ。
しかし、出発の前々日まで仕事が入っているし、なんせ送別会なんかも忙しく、家のほうのかたづけが
全く進まない。出発二週間前に、かたづけのスケジュールを作ったら、間に合わないことがわかり、愕然と
した。

どうなるのだろうか?



やはり外国に長期行くというと、送別会もたくさん開いていただいた。
その当時何件かお邪魔していたお客様には、選別までいただいたり、仕事仲間や旧友など、ほんとうに
いろいろな人としばしの別れを語り合うことになった。どうも、男が留学というと、超エリートか、よっぽど
酔狂者にうつるらしい。私が超エリート出ないことは、みな知っているので、とんでもない酔狂者を迎えた
宴として、楽しんでいただけたのではと思う。中には、普段なかなか一杯行けないような人?もいて、
こちらも楽しませてもらった。

さて、そうやって最後の数日間が過ぎて行くのであるが、前回にも書いたとおり、仕事は出発の2日前まで
ある。送別会も毎日のように入っている。いつ、出発の準備をするかといえば、土日なのだが、4年過ごした
家をたたむのは並大抵のことではない。留学の手紙を書いてもらった神業の友達などに手伝ってもらっても、
最後に出るのはため息。弟とその友達にもかなり手伝ってもらったが、まだまだガラクタの山である。
特にといっては変だが、わたしはわりと物持ちで、大きな物は電子ピアノから、ラジコンの車、ゼロ戦など
かさばるものがいくつも。あとは、独身者の常としてか、ゴミともなんとも判別つかない物多数。
近くの友達にしっかりものがいて、徹底的にガラクタを「ゴミ」と判別し、捨ててくれたにもかかわらず、
こんどはそのゴミが山積みされて、処分に困るしまつ。

結局、最後は弟と関西から手伝いに着てくれた両親にたくして、「脱出」してしまうことになるのだが、
準備の難しさを痛感した。出発の模様はまた後で記すとして、一人暮らしの人が、日本から物理的にいなく
なるということは、荷物のことなど本当に大変なのである。関係してくださった方々には、本当に感謝
している。

ちょっと話題を戻そう。NHKの支払い停止の申請、電話を権利を弟に貸して別の番号に移転する処理、
電気代など光熱費の処理などと共に、もちろん家、駐車場の解約申請を行って、ゴミや家具の問題以外の
懸案はなくなってきた。カナダから手紙がきて、ホームステイの先も決まったとの事。ついに向こうの
住まいも決まったのである。あ、ひとつ忘れていたが、その当時、海外でお金を引き出すなどがなかなか
難しいということだったので、CITI BANKに口座を作っていった。最後まで働いているので、
出発後も入金があるから、今後のお金はここに入れてもらえばカナダで引き出せるというわけである。
いままでの貯金も、税金や一部のカード支払い分、保険の引き落としなど分を残して、ほとんどCITI
の方に移した。最近は、いろいろな方法があるということだが、私は現在でもCITIを使っている。

カナダから来たホームスティ先確定の手紙には、現地到着後にせねばならない事について記されていた。

「ビクトリア空港でホームスティ・マザーと会ってください」
「担当者に到着したという電話をしてください」

おいおいちょっとまってくれ!会うといって、どこであうんや?でんわなんてできるわけないやないか!

早速、カモソンカレッジに電子メールを書く。このころになると、もう下手でも何でも英語である。

残念ながら原文が見当たらないので、またさがしておくとする。また改訂版でも作るとき?にまでに
見つけておこうと思う。

ともかく、どうやって会えば良いのか?などとかいたら、

「心配しなくてもよい。ビクトリア空港は狭い」

という大変心配な返事。
しかし、ここまできたら、もう行くしかない。忘れ物をしないようにすることくらいである。

パスポートわすれんようにせねば...



どんどん日は流れて行って、ついに出発の日になった。
(この連載?も2月もブランクがあったから、あっという間に流れたというわけでもないが...)

前回も書いたとおり、部屋を最終的にたたむのは弟や両親。この歳になって、すねをかじっているようで、
とても悪いと思うが、なにしろ日が流れてしまった。また、近くの友達や、神業高瀬氏、親族などからも
餞別をいただいたりして、あらためて、色々な人に支えてもらっているのだという気持ちになる。
関西の友達には送別ゴルフにつれて行ってもらった。この後無収入だった間、「帰国記念」などと、何回か
ゴルフにつれて行ってもらうことになる。まったくありがたいことだ。長年お世話になったお客様では、
ベネトンの大型旅行カバンを安くわけてもらった。このカバンは今でも重宝させてもらっている。
(このあたりの記述は、前回の分とも編集して行かねばと思う。)

出発は夕方である。困ったことに、航空会社はノースウェストだったが、いろいろ記録していた電子メモに
なぜか便名と時刻の記述が無い。どこかに残してあると思うので、また書いていこうと思うけれど、
ちょっとさびしい気分でもある。当日は、託していくとは言っても最後の片付けと、電気ガスなどの停止日や
停止の確認などをしているうちに過ぎて行った。荷物は、物持ちらしく多い。何せシンセサイザー音源まで
「持って」ゆくのだから大変な荷物になる。着るか着ないかわからない「スーツ」に、こちらは着るだろう
厚手のコート。着るものは出来るだけ向こうで買うといっても持ち物は増える。歯磨きひとつにしたって、
何があるものやらわからんわけで、とりあえず愛用の「クリニカ」を持っていったりもする。馬鹿らしい
とは思うだろうが、とにかく現地であったアフリカ人が「ぷうぅ」とおならをするのに感心したほどの
「島国育ち」かつ、現地で調達できるようになるのに何日かかるか心配なのだからしょうがない。

そんなおお荷物だったが、割増2万円ほど(これも残念ながら記録無し)でOK。この話しでも最初のほう
から登場する高瀬氏に、田舎のおばあちゃんまでやってきたお見送りの前、ついに搭乗ゲートをくぐった。

さあ、ビデオとったり写真とったり、はしゃぎまくりの状態になっていたら、なんと搭乗する飛行機が遅れて
いるという放送があった。最初からトラブル!シアトルで乗り換えてビクトリアに行くのだが、遅れられたら
乗り換えの便が無くなるじゃないか!!はよでんかい!!!

飛行機は、結局1時間遅れで出発した。

ついに日本を離れる。何ヶ月間帰ってこないことになるやら?3ヶ月間であきらめるなら、銭出さずに
帰れるぞ!それよりも、無事ビクトリアでホストマザーさんとは会えるのだろうか?など、いろいろな不安を
抱きつつ、飛行機は舞い上がって行った。




とにかく、初めて外国航空会社の飛行機に乗って、アジア以外の外国に行こうとしているわけである。
「Tea?? Coffee??」なんて問いにもどきどきしながら答える。

ここで、一口知識というやつを書いておこう。

この「Tea?? Coffee??」という問いかけには、「Tea please...」というように「please」をつけないと
印象が悪い。オレンジジュースでもなんでもそうである。日本語でもおんなじで、「水!」なんて答えたら
子供か成金のアホ親父である。「水ください」というではないか。あたりまえのことなのである。

もちろん、わたしは「Tea? Coffee?」に、「えーーーと...Coffee!!」と答えていた。

先の一口知識は、この後1年少々を外国で過ごすうちにあたりまえになったものであり、他の人が
「Coffee!」とやっているのが気になってしかたがないようになってしまった。文化とか習慣とかいうものは
このように難しいもの。ちょっとしたことでもこんな按配なのだから、もっとややこしい政治の問題や
宗教の問題が、あっちこっちでこじれるというのは、当たり前のことなのかもしれない。

さて、3人がけのシートに座った3人がすべて留学生という奇遇で、それぞれの行き先を披露しあったり
しながら飛行機はとんでいった。偏西風が強かったということで、1時間の遅れも取り戻せたとのこと。
ほぼ定刻どおりにシアトルにやってきた。


外国である。

飛行場にも慣れてない奴が、外国を一人行く。ちゃんと荷物は移動されているのだろうか?それが一番心配
である。なにしろ国際便のトランジット(この言葉も知らなかったし、覚えられなかった)だから、どこかへ
行ってしまうと、私の固形財産の中で重要なものの多くを失ってしまうことになるのだ。

そんな心配も吹き飛ぶ心配が次にやってきた。もちろん入国審査である。

アメリカには寄るだけだから、そういったものは簡単だと勝手に思っていたが、トランジットでもなんでも
入国審査はあるのだ。これも後で知ったことであるが、トランジットと偽って入国してしまう人が多いこと
から、帰りのチケットを持ってない人には審査が厳しいらしい。
私の場合は、前に書いたとおり「往復チケット3ヶ月有効」で来た。カナダの「留学ビザ引換証」を見せても
ぜんぜん埒があかなかった審査官が、帰りのチケットクーポンを見せたら、「この日までに帰るんですね」
見たいなことを言って認証期限をその日までにした一時ビザを発行してくれたわけを知るのは、なんとそれから
2年もたって、2度目のカナダから帰る時に、「一方通行でアメリカを経由するのは、難しいですよ」と
ビクトリアの日本人観光業者に教えてもらった時のこと。何もしらないわたしがスタックしそうになったのは
当然の事といえる。

入国審査も何とか終えて、広いシアトル空港をビクトリア行きの搭乗口を探してうろつく。親切な係員がいて、
教えてくれたりもしていただきながら、やっとそれらしい場所にたどりついた。

ふと外をみると、まるで富士山のように美しい、雪をかぶった山が見えた。

日本という殻の中にいて、「富士山ほどきれいな山は無い!」と思いつづけていた自分が、簡単に崩れていく
ようだった。目的地へ行く途中の空港で、富士のようにきれいな山を見る。世界にはまだまだきれいな山が
あることだろう。

「これは、固定概念は捨ててかからないとだめだな」

と、痛切に感じつつ写真にとり、ビクトリア行きの搭乗口へと向かった。


(写真を現像してみると(左)何も写ってないように見えますが、画像処理をすればごらんのとおり...
 露出を考えないで撮ると、記念のような写真もこうなるという悪い例ですね。)

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