Last update on Sep.14th,2005



スペイン紀行




遥かなる国スペイン

マドリッドで絵を見る

一面のひまわりのかわりに







2005年8月10日から8月12日まで


今年はスペインである。 私にとって、スペインといえばアントニオ・ガウディだ。 アントニオ・ガウディといえば、バルセロナであり、聖家族教会(サグラダ・ファミリア)なのである。 その出会いについてはすっかり忘れていたのだが、今回とてもお世話になったバルセロナ在住の元同僚宅 にてそのような話になり、私は「ダンケルクからバルセロナにかがり火で光通信をしたというコマーシャ ルが出会いだろう」と言うと、彼は「僕はウイスキーのコマーシャルで、ガウディの建築が紹介されてい たのが最初」と指摘してくれた。そういわれてみれば、わたしも間違いなくそっち派である。 サントリーだったかのコマーシャルで、ガウディの奇奇怪怪なる建築を次々と紹介していたように思う。 たしかにとても印象に残るコマーシャルだった。「あんなのを見てみたいなぁ」と、思っていた。 そして今年、学校が休みに入っているのと、先にフライングで紹介したバルセロナ在住の元同僚が、帰国 をするという話を聞きつけたので、「これは行っておかないと!」と、昨年のシャモニー・チューリッヒ と全く同じ理由でもって出かけることにしたという次第である。飛行機でロンドンからわずか2時間ほど の距離であるが、せっかくスペインに行くのだから、5泊6日のスケジュールを組んで、いつものように せわしない旅を計画した。 到着日と翌日をバルセロナの元同僚宅に泊めてもらい、3日目に首都マドリッドに移動。2泊して、セビ リアに超特急列車で移動し、レンタカーを借りてジブラルタル海峡をこの目で見てから、その日のうちに セビリアに戻って一泊し、昼頃また超特急(AVEといいます)に乗ってマドリッドに戻って、そこから 飛行機でロンドンに帰ってくるというスケジュールである。 昨年、両親と妹がイギリスに来たとき、あまりにあちこちに行きたいという話しがでるので、「イギリス を佐渡島くらいの大きさと勘違いしてるのとちゃうか?」という発言をよくしていたものであるが、今度 は自分がスペインを紀伊半島ぐらいと思い込んでいることに気がついたのは、「あそこもここも行ってみ たい!」と適当に考えたあとに、列車などの時間を調べはじめたあとであった。 バルセロナとマドリッドは、5時間の列車旅なのである。つまり、だいたい東京ー大阪くらいの距離があ るらしい。マドリッドとセビリアは時速300kmといわれるAVEで結んでいるので、2時間ちょいだ が、そこからジブラルタル海峡のある海岸までは、地図の見積もりで大体200km。往復で400km 以上あるだろうとおもう。大阪ー広島間が320kmほどだから、それより遠い話となるわけだ。 そこを初めの計画では、南の端つまりジブラルタル海峡のほうと、北の端を両方見てやろうなんて思って いたのだから、まさに紀伊半島と勘違いしているといわれてもおかしくはない話ということになる。 スペインの面積は、日本より広いらしい。 前置きが長くなった。 シャモニーの時にも使ったロンドンの北の玄関ともいえるLuton空港から、これまた同じEASYー JETを使っての出発となる。 Lutonに行くためには、七夕の日に爆発テロで多くの犠牲者を出した、キングズクロスの駅を経由し て行かねばならない。もう、その場所に行くのが怖いというような感情はほとんどないのであるが、行く 事自体があまり気分のよいものではないなと感じていた。ノーザンラインを使って、キングズクロスの駅 に着き、北へと出て行くテームズリンクの線に乗り換えるために地下道を歩いてると、爆発のあったピカ デリーラインのホームの脇を通ることになる。今でも警備員が一杯いるようにみえた。 重い気分になりながら、テームズリンク線にやってきてみると、何かが変だった。出発の案内が出ている はずのテレビ画面に、なにやらややこしい文言が並んでいる。アナウンスで言っていることで、わかりそ うな事を拾い聞きしながら情報を整理すると、なんと路線の一部で漏水があり、電車が止まっているとい う。つぎの電車が出る予定は30分後のことみたいなことを言っている。 困ったことになった!飛行機の時間が危ないかもしれない。 わたしは大体飛行機の時間に関しては、かなり余裕を持って乗りに行く性分であり、特にEASY−JE Tの場合は、チェックインをした早い者順に乗り込んで、勝手に席を決める事ができるので、かなり早め にでてはいた。しかし、ずるずるとこの事態が遅れていく可能性も、イギリスである限りものすごく高い 確率で有り得る。 わたしはすぐに違うパターンをとることにした。 キングズクロスの駅に隣接するセントパンクラスという駅からも、ルートン空港行きの電車がでているの である。前回の旅ではそちらを利用したのだ。早速、歩いて10分ほどのそちらの駅に向かうことにした。 ラッキーなことにテームズリンク線のチケットは、機械が故障していて買っていなかったので、ややこし い手続きもいらず、そのままセントパンクラスに行った。列車のスケジュールを見ると、テームズリンク の方で再開が予定されている時間の5分後に出ることになっているようだ。しかし、こちらの電車は途中 駅にとまらず、ルートン空港の最寄の駅が最初に止まる駅となるから、電車が本当に来たとしても、こち らの方が早くつくことになるだろう。ツイているのか不運なのか良くわからない按配だったが、とにもか くにも空港へ向かう電車に乗り込む事ができた。 この写真でわかるとおり、一列に3席しかないファーストクラス用の車両が、普通車両として使われてい た。ちゃんとスタンダードクラスと書いてあったし、検札の際も文句が出なかったから、間違ってはいな いと思う。30分もかからない電車の旅ではあるにしても、ゆったりとした座席は気分がよいものである。 EASY−JETについては、以前詳しく書いたからここでは省く。チェックイン開始時間には少々遅れ はしたものの、簡単な搭乗手続きを済ませてみたら整理番号は50番台。これなら、まず自分の思う席に つくことができる。搭乗時刻になって飛行機に乗ってみると、やはりお目当ての翼のやや後ろの席が空い ていたので、そこに座る。ラッキーなことにか、テロリストと間違われないようにサングラスをしていな くても十分怖かったものか、隣には誰も座ってこなかったので、列車に引き続き悠々とした空の旅。 うとうととして気がついてみると、飛行機は着陸態勢に入っていて、初めて目の前にみる地中海に一度で てから旋回し、バルセロナ国際空港に到着した。ちょっと雨がぱらついている。 預け荷物もなく、入国検査も何も質問無しでスタンプを押してくれ、到着ロビーで待っていてくれた元同 僚にはすぐにあう事ができた。ちょっと天気が悪いらしいという話ではあったが、彼の家に連れて行って もらってから、近所をぶらついて海を見たりし、バル(BAR)とよばれる簡単な食べ物やが出している 並木の下のテーブルに座って夕食をご馳走になった。奥さんにも途中から加わってもらい、わたしにはと ても楽しい晩餐であった。上の右側の写真は、その通りを翌朝に撮影したものである。 さて、翌日はバルセロナを案内してもらう。 元同僚はバスの10回乗車券を一つ買ったようである。その券をバスや地下鉄に乗るとき、2回機械に通 すと、二人分という按配である。 どこに行きたいかと聞かれれば、まずはなんといってもサグラダ・ファミリアである。 この日は朝が英国のような雨から晴天から雷まで何でもありという予報で、午後からはその中から残念な ことに晴天だけがなくなりそうだという話だったので、一番先に連れて行ってもらうことにした。 途中、昨日到着したときも見かけた妙なビル。弾丸のような形をしている。彼によると、現地では大変評 判が悪いそうである。たしかに、もうちょっと何とかならないものかと思ってしまう。 バスから降りてしばらく歩くと、世界でおそらく一番有名な未完成建築物だろう。聖家族教会「サグラダ・ ファミリア」にたどり着いた。 さすがに大盛況である。8ユーロもする入場料を払うとき、案内のレシーバーが3.5ユーロとあるので、 彼に「日本語はあるか?」と聞いてもらったが無いとのこと。イギリスではエジンバラ城のようなところ でも日本語があるのに、それよりもおそらく有名なこの教会でも日本語が無い。スペインにはもうちょっ と頑張ってもらわねばならないと思う。 さて、教会の中に入ると、下の右の写真のとおり確かに未だに建築中である。ステンドグラスが貼ってあ るのがお分かりいただけるだろうか?ここは教会といってもまだ建築中であるから、さすがに敬虔な思い に浸る雰囲気ではない。その部分をちょっとでもなんとかするためにだろうか、ステンドグラスについて はいくつかの方向から、すでに貼ってあるのを見る事ができるのである。 塔の上にも登ることができる。 この教会は1882年に建築が開始され、1926年にガウディが町で事故にあって亡くなってからも、 もちろん現在に至るまで建築が続けられているというのは有名である。現在は8本の変わった形の塔がた ち並んでいるのが見えるが、長らくは4本であった。そして1900年代後半になって4本が追加されて いるようである。なお、案内書によるとこれは12使徒を表す鐘塔と呼ばれるものだそうで、あと4本が まだ完成されていないとのことだ。 ちょっと話がそれたが、最近になって作られた4本側にはエレベーターが観光客用に開放されている。し かし、案内をしてくれた彼によれば「それは邪道である」とのことで、私たちは340段といわれる階段 を登ることにした。 エレベーターにはかなりの行列ができていて、まったく邪道な奴が世の中には多いものだと思っていたら、 なんのことはない「正統派」の人々もかなり多く、長い時間待ってやっと登り口にたどり着いた。その間、 ずっと立ちっぱなしであるから、階段を登る前に足は棒になりつつあった。 何人かを登らせては、数分の間隔を置くという方式を取っているので、狭い螺旋階段にもかかわらず先に は人がいない。そのため、かなりのペースで登っていくことになる。これは足より脳みそにこたえる。つ まり、目が廻ってしまうのだ。右手にステンレス製の手すり、左手は螺旋階段を作っている石をもちなが ら進まないと、手を離せば後ろに倒れてしまいそうになって怖い。しかし、やがて階段は渋滞し、待つの は大変だが目が廻るのはおさまった。周りの壁には昔からあるのだろう、落書きだらけである。以外なこ とにと私は思うのだが、日本語のものはとても少ない。相合傘がひとつあったのが目立ったくらいだ。 なかなか道徳教育が行き届いているようでうれしい。 関係ないかもしれないが、ハングルがちょっと目立ったのは気になった。 途中2回ほど「ここで止めて下に降りれます」という場所を見送って、最後の部分を登る部分では、みん な写真のように、窓から顔を出したりしながら登ってゆく。 登ることの出来る一番高い部分を過ぎると、下りはみんな写真もとらないからかものすごいペースで降り てゆく。螺旋階段の半径が小さくなる最後の部分では、行きと同じく目が廻って困った。 上の右側の写真、光って見にくいが、この教会の完成予想図である。12本の鐘塔は、前の方に小さく黒 く見えているものに過ぎず、中央に巨大な十字架を頂上に頂く170mの塔などが、これから建築されて いくそうである。その割には、たしかに巨大クレーンが数機設置されてはいるものの、工事をしている人 をみかけることは無かった。夏休みなのかもしれない。でも、そんなことをしていたら、この教会ができ るころ、私たちが登った塔は、もう崩れ去っているのではないだろうか... 「完成したらタダにする」といって「計画がある限り完成はしない。財源が必要だから値上げする」とい う首都高速の話とはちょっと違うが、この完成図を見る限り、もうちょっとピッチを上げないといけない のではないかと思うのはわたしだけだろうか? 夢一杯の教会を後にして、その名もサグラダ・ファミリア駅から地下鉄に乗って、今度は旧市街といわれ る所に連れてきてもらう。 大聖堂の美しさに目を見張ったり、原宿や渋谷なみの観光客の多さに辟易したりした。 ガウディの建築は町のなかにも、いまだに息づいている。下の左側のものは、通称「石切り場」ともいわ れているそうで、竣工当時は非常に評判が悪かったらしい。しかし、今はバルセロナの名所のひとつであ る。先に書いた弾丸型のビルも、よい扱いをされる日が来るのかもしれない...とは、思わない。 ちょっと格が違いすぎる気がする。 楽しく、そして二人して足を棒にした一日の終わりは、左側に写っている店で食事ということになった。 席が空くのを待っていると、夕日が遠くの寺院に映えてとても綺麗な瞬間に出会う。 やがて、彼が呼ばれたので店に入ると、ひと目見て日本人と思われる人が何組も目に付いた。メニューに も、日本語が書き込まれている。近くに勤めている彼の奥さんが、仕事を終えて合流するために店にやっ てきたとき、店の人に「日本人の二人連れはどこにいますか?」と尋ねたところ、「たくさんいるので、 どの人たちやら?」という答えだったといって笑っていた。 料理は、フランスパンの上にいろいろな具を乗せて食べるもので、多彩な味を楽しむことができる。 いつも書くことだが、わたしだけが旅をするとなると、「食」という部分は旅とはまったく関係のない話 になってしまう。アメリカ一周旅行の際、レストランと名のつくものには一度も入らなかった。主食はガ ソリンスタンドで売っているサンドイッチとスポーツ飲料(飯じゃないですね)だったし、夕飯はといえ ば、ハンバーガーかフライドチキンだった。 しかし、昨年末のスイスやフランスの旅では、現地のおいしいものを食べたり飲んだりできて感激した。 それもこれも、現地に人がいて、ありがたいことに案内をしてくださったからである。 この二日間で食べさせてもらったスペイン料理。なかなか美味だった。有名な生ハムをはじめ、きのこの 類やトマトソースの塗ってあるパン、オムレツ、チーズのようなクリームのかかったポテト、ソーセージ 各種に、クリームコロッケ!いわしのオリーブ油漬け! わたしはエビカニアレルギーなので、魚介類に深く入り込むことが出来ない。しかし、そんな奴にも十分 楽しめるバリエーションだった。 ご夫妻にはほんとうに感謝したい。 二泊させてもらった彼ら夫婦の家には、かわいらしい猫「たび」ちゃんがいる。愛嬌たっぷりで、カナダ 時代のサーシャを思い出させてもらった。 こちらの猫だそうなので、彼女が初めての日本でも楽しく暮らせるよう祈っておこう。 バルセロナの駅に連れてきてもらって、ついに彼とはお別れである。ガイドブックには、チケットを持っ ていればそのまま列車にのって、検札がくるのを待ちなさいなどとあったが、それどころではなく、手荷 物の検査をかなり厳重に行っていて、それが為かもしれないが出発時刻の一覧ボードを撮影しようとした ら、係員に止められるというわけのわからないことまで起こる。彼とも、手荷物検査の後に別におこなっ ていた切符検査のところでそれ以上入れなくなり、そこで握手をして別れた。ほんとうにありがとう! これまた彼に手配してもらった切符にある座席を見つけて座った。 スペインの列車時刻は英語のページで調べることができるのだが、予約のページに英語がなく、旅行会社 などにもあたったがあまりよい答えではなかったので、それも彼に頼んで買ってもらっていたのである。 何から何までお世話になった。この後のセビリア往復の超特急も同じく予約してもらっている。 かなわないことに、隣は汗臭い男だった。これから5時間もあるのだから、かなりきついがしょうがない。 ガイドブックに書いてあったとおり、19両編成の列車は音も無くバルセロナ駅を出て行ったのである。 道中は、車両の一番前にあるテレビで映画をやっていたりして快適だ。隣の男も動かない限り臭く無い事 がわかり、映画に見入っていたり本を読んだり、あまり動かないでくれたため、特に気にもならない。 わたしはといえば、夏休みの宿題を持ち込んで、ああでもないこうでもないといいながら時間を過ごした。 参考資料のプリントを眺め終わったころに、風景が変わり始めたかとおもうと、列車はマドリードはアトー チャ駅に到着した。風景の変わり方は、本当に激変といった感じで、それまでの荒涼としているといって も良いような場所から、ビルの立ち並ぶ街へと突入して行ったという按配だ。 さて、これからはいつものような自分の旅が始まる。 明日は何があるだろう!


2005年8月12日から8月13日まで


明日は何があるだろう...なんて書いてはみたが、いろいろなことがあった。 大体マドリッドに到着した日のことを書いていないのも問題であるから、それから始めることにしよう。 アトーチャ駅では、ペイントン時代の友達が待っていてくれた。彼女は、夕方からバカンスに出かけると いうところを、わずかな時間を作って昼飯でも食おうということにしてくれたのである。14時20分に到着 したのだから昼過ぎというわけだが、前出の元同僚によるとスペインでは14時くらいが日本の正午くらい の感覚ということで、ちょうどスペインスタイルの昼飯を食べるということになるわけだ。 彼女はバカンス用のキャリアーを転がしながら、アトーチャ駅周辺の食堂を探してくれ、2軒目に席の空 いている店をみつけてくれた。 メニューを見てもわからないわけで、彼女に英語で説明してもらう。彼女がペイントンの英語学校に来た 時は、寡黙でほとんどしゃべらなかったし、事実発音もわかりにくくて、かなりコミュニケーションには 苦労したのだが、約10ヶ月の英国滞在で、いまや仕事でも英語を使っているそうだ。まったく同じ学校 に行っていながら、なんという違いであろうか?それはさておき、メニューはコースになっているらしく、 前菜とメインの2つにわかれていて、それぞれいくつかある料理の中からひとつずつ選ぶというものらし い。わたしは、冷えたトマトのスープを前菜に、牡牛の尻尾の料理?をメインにすることにした。彼女は、 「スペインの闘牛は有名だけど、その後食べるとは知らなかったでしょ?」なんて言ってる。わたしが頼 んだ牛が、闘牛の牛かどうかは知らないが、もったいないお化けを信仰しているわたしには、当然殺した あとは食べるものだろうと思っていたから、話がかみ合わなかった。 飲み物は何にするか?と聞くので任せることにすると、赤ワインと透明な液体の入ったビンが出てくる。 赤ワインをついであげたまではよかったが、今度はその液体をワインに入れろという。入れてみると、炭 酸のようで泡がはじけた。飲んでみるとこれが甘い。後で飲んでみてわかったのは、ワインが甘いのでは なく、炭酸がサイダーのように甘いのだった。甘いスパークリングワインを即席で作って飲むというわけ である。昼間から酒とはといわれそうであるが、スペインでは昼飯が一番重要なのだそうであるから、そ ういう飯であってもおかしくはない。あと、彼女との話しの中で、サイダーのことを話題にしたので書い ておくと、イギリスでサイダーとよべばビールが出てくるのでご用心を。ソフトドリンクのつもりで頼む と大失敗する。サイダーを甘みの付いた炭酸飲料とするのは、日本でのことと思っておけば間違いないと 思う。もちろん、ほかの国でもその名前を使っているところがあるのかもしれないが。 さて、昼間から酒を飲みながらの昼飯は、これまたとても美味かった。トマトのスープも、牡牛の尻尾も、 最高である。コーヒーを飲んで、アイスクリームを食べてと、さすがスペインの昼食らしく贅沢なものを いただいた。彼女が勘定を払っているので手元をみると、なにか券のようなものを出している。 はは〜ん、これが食事券だなと思い当たる。と、いうのは、バルセロナで元同僚と物価高の話をしていた 時、日本では交通費が支給される場合が多いが、イギリスではそれがないから大変らしいという話をして いて、彼いわく、「スペインでは交通費は出ないけど、食事券が出る場合がある」といっていたのだ。で、 何割かの人は、弁当を持ってきて食事券をためて、週末などに楽しむそうである。彼女はまさに、その券 でご馳走してくれたのである。いくらか払おうとしたが、いらないというのでご好意に甘えることにした。 店を出て、彼女が待ち合わせをしている交差点に行ってみると、車が待っている。若者が数人乗っていて、 いかにもバカンスといった感じ。とても楽しそうだ。彼女のキャリアーをなんとか積み込んで、車は走り さっていった。久々の再会であったが、元気そうでなによりだった。 彼女と別れて、これからが本当の一人旅である。まずは、ホテルを見つけてチェックインしなければなら ない。地図とにらめっこしていると、それらしい道がわかったので、ずんずん歩いていくことにする。 15分ほどあるくと、路地を入っていったところにホテルが見つかった。 一応4星ホテルで、ヘミングウエイが良く使ってたらしいと、さっき別れた彼女からは聞いていたが、入 口のところにそれらしい看板が出ている。 チェックインは、予約済みの証明となる紙を見せるだけ。ネットで検索すれば、いろいろな安いホテルが でてくるので、ここもそういうものを予約しておいたのである。朝食つきで1泊50ユーロほどだから、 良いホテルにとまって少々安心ということを考えれば、それもまたよいかなという贅沢なたびではある。 部屋に入ると、窓の外には中抜けの空間が見える典型的な安部屋である。一緒についてきたおじさんに、 チップを出すかどうか悩んだが、この部屋ならと出さないことにする。荷物をもってもらったわけでもな し、元同僚にも奥さんにも「余程のことがない限りだす必要はない」といわれていたのもあった。本当に このチップという習慣ばかりは難儀である。部屋に対しても、いままで置いたり置かなかったり。忘れて いたというのもある。スウェーデンの滞在では、「5クローネ」を「ご苦労ね」として置いていたが... たしかに、浴室などはご覧のとおりきれいで、さすが4星という感じではある。となりの噴水がある交差 点から歩いてすぐだ。実は、もっと映像も多くとっていたのであるが、この翌日の夜にパソコンが故障し、 デジカメから転送しておいた画像はすべてこの世のものではなくなってしまった。ここに載せているのは、 それ以降にとったものなので、報告を書くような角度からの画像少ないのである。この旅のなかで、最悪 の事件であり、そのために日記も更新できなかった。ただ、少々ラッキーだったのは、一日目の日記を転 送した直後に壊れたので、ネット用の解像度の悪い写真、つまり前回このページに載せた30枚ほどのス ナップだけが記念として残っているというわけなのである。こればかりは、バックアップを旅先でとるわ けにはいかないので、不幸な事故にあったと思ってあきらめるしかない。 話がかなりそれた。その後の行動を書いておこう。 部屋の冷房を最大にしておいてから部屋をでて、ひとまず夜までやってるソフィア王妃芸術センターに、 ピカソのゲルニカを見に行くことにした。「学生です」といって英国の学生証を見せると、割引になる。 ただ、この手はどこでも使えるわけではないらしく、翌日行ったプラドでは、「25歳以下ですか?」と 聞かれて「上」と答えると、正規料金をしっかり取られた。(後記:後ろにも書いてあります) さて、広大な展示スペースの中、2階の一角にあるのがゲルニカである。 これはポスターになっているものであるが、1937年のスペイン内戦の際、当時のフランコ将軍に協力 するドイツ軍が、ゲルニカの町を空爆したことにピカソが怒り、作成されたものだという。 約7.7mX約3.5mという巨大な白黒の作品である。 それにしても、最近思うようになったのは「絵」というものの持つ力である。写真だと、この惨劇をあら わすのに、どのような方法が用いられるのだろうか。たとえば911テロのあの映像がもたらす効果とい うのはどのようなものだろう。絵であるがゆえに迫ってくるいろいろな感情、おそろしさ、つらさ。絵と いうものは、物をただ書き写すものではなく、人になにかを伝えようとするものなのだと、この巨大な絵 をみていて感じざるを得ない。 ソフィア王妃芸術センターでは、スペインの近代を中心とした絵画をいろいろみせてもらった。 割引料金のこともあって、満足して立ち去る。時間があったらもう一度ゲルニカだけでも眺めてみたいと 思いながら、まだ日の高いマドリッドの町を歩きはじめた。 ホテルの格にたがわず、ホテルで食事をするというのはわたしのポリシーに大きく反する。つまり高くつ くだけという考え方だ。よいホテルには泊まりたがるくせに、せこい考え方である。 ゲルニカを見たわたしは、次なる行動にでた。それは、スーパーマーケットを探すことである。 スーパーを探して、水やスナックなどを手に入れれば、ホテルや露天で売っているものより安上がりだと いうわけで、わたしがどこででもやっている行動だ。しばらく町を歩いていると、見事中国人が経営して いるらしいスーパーを見つけた。中で1リットル入りの紅茶とスポーツドリンク、あとアイスクリームを 買う。ここまでぜんぜん書いてこなかったが、実際暑いのだ。アイスクリームにしゃぶりついて、やっと 人心地といったところだった。 昼飯にスペイン風の、自分としては大目のご飯をすでにとっていたので、この日は晩飯についてはあまり 興味がなかった。そこで、一寸疲れている事もあり、ホテルに帰って明日の構想を練りながら、早めに寝 ることにした。ホームページ用にデジカメの写真を取り込み、このスペイン紀行のはじめの部分を書き始 めたのもこのときである。翌日は、マドリッド観光か、ローマ時代から残る水道橋をセゴビアというとこ ろに見に行くか、はたまた古都と呼ばれるトレドに行くか悩んでいた。 わたしはミーハーなので、ローマ時代からの水道橋に興味をもっていたが、先の元同僚、その奥さん、そ してマドリッドの友達の三人ともが「トレドに行くべし」というので、人生、人に逆らうとろくなことが ないというわけで、明日の予定はトレドにいって帰ってきてからプラド美術館に行くことにしたのである。 翌朝、予約しておいたホテルの朝食を食べてから、トレド目指して出かけることにする。朝食は、いわゆ るコンチネンタルスタイルという奴で、オランダやスウェーデンでお目にかかったボリュームたっぷりの 奴ではなかったのが少々残念である。それでも、もしかするとまともな飯は今日一日これっきりかもしれ ないので、ベーコン、ソーセージ、スクランブルエッグからスイカにいたるまで、満腹になるまで食べて おく。 フロントに、「ポルファボール(お願いします)」と、電子辞書に出てきた単語を言ってキーを預けると、 フロントの人はちょっとニヤッと笑って何かスペイン語で言いながら受け取った。 ちょっと書いておかねばならないことがある。 日本人は外国人といえばみな英語を解するものと考えがちだが、世の中は広いということだ。先に紹介し たバルセロナ在住の元同僚の奥さんは、スペインの人であるが、日本語も英語もそしてスペイン語も話す ことができる。バルセロナでは有名な靴屋さんで働いていて、日本人観光客を相手にすることも多いとい う。彼女はかなり流暢な日本語を話すのであるが、日本人観光客の中には、日本語で話しかけているのに 英語で質問したり答えを返す人がいるという。 考えてみれば、こんな失礼な話があろうか? 彼女が日本語で語りかけたときに、スペイン語で返したのならまだわからないでもない。しかし、英語は 彼女にとっても日本語と同じ外国語なのである。どうして、そんなことをするのだろうか? わたしを含めた多くの日本人にとって、外国人といえば英語をしゃべるものと、心のどこかで思いこんで いるというのは仕方のないことかもしれない。以前、英国滞在記にもそのようなな事を書いた。日本人に とっては外国人とはアメリカ人のことなのではないかと。 しかし、現実には英語を母国語とする人は、そんなに多くなく、単に英語は国際語として広まっているだ けである。英語をしゃべれる人はたしかに多いのだろうが、力を持ちすぎたアメリカや、バブルのイギリ スが、ほかの国の人から好かれているという話はあまりきかないのだ。 英語が国際語として便利なのは間違いない。しかし、外国人とみれば英語を話しかけるというセンスは、 今後考え直さねばならない考え方だと思う。同じように、英語を母国語としない国にでかければ、できる だけそこの国の言葉を使ってみようではないか。それのほうが、きっと滞在している国の人も好感を持っ てくれるとおもうのである。 話がまたそれた。 わたしは以上のようなポリシーを持ってはいるものの、言葉については本物のオンチであり、もう英語圏 に3年ほど暮らしていることになるが、ニュースの言葉すら聞けないと嘆いているほどの者である。去年、 フランスを旅したときに、「お願いします」は「しるぶぷれ」、「ちょっとごめんなさい」は「ぱるどん」 であると辞書からひねり出して一生懸命覚えたから、これは今でも頭の片隅にある。今回も、同じ言葉の スペイン語を調べると、「ぽるふぁぼーる」と「ぺるどん」であった。ぺルドンは簡単なのですぐ覚えた のだが「ポルファボール」が難物で、すぐに忘れてしまう。西原恵理子の「鳥頭」というのがあるけれど、 わたしのは「虫頭」くらいではなかろうか。「ファボール」の部分は、「フォアボール(四球)」で覚え たのだが、はじめの「ぽる」が吹っ飛んでしまう。今でこそ覚えているので、どういう間違いをしていた かが思い出せないのが残念だが、とにかく悔しい思いをした。いちいち辞書を引くのは面倒なので、小さ な紙に、「ポルファボール」と書きこんでおいてズボンのポケットに突っ込んでおいたら、その紙がよく 見当たらなくなって、これまたつらい思いをする。 歳はとりたくないものだ。 話を戻して、トレドへの旅へと移ろう。 トレドへは、マドリッドの友達が、「バスで行けばよいわよ」といってくれていた。しかし、バスといえ ば乗り方もわからないし、迷えば大変である。こういうときは電車のようにスケジュールが事前にチェッ クできるものに限ると、発車時刻をチェックしてからでかけることにした。 スペインの地下鉄にのって、トレドへの列車が出ている Chamartin駅へと向かう。昨日に元同僚と利用し ているので、あまり戸惑うこともなく乗り込めた。スペインの地下鉄は、バルセロナで彼が買っていたバ スにも乗れる10回券と、一回券、そのほかにもいくつかの種類があるようである。 10回券は、値段からいって1回券を6回使えばペイするくらいのものだから、それくらい乗るかどうか が思案のしどころだ。わたしは、歩くのが好きであるという理由で1回券を選んだ。1ユーロ。しかし、 これは結果的にはちょっと行動範囲を狭めてしまったようだ。帰国までに乗った回数そのものは、5回で あったから、10回券なら損だったかのようにみえる。だが、そういう券を持っていれば、あちこち行く 気になったろうにと思うような場所も、慣れてくればでてくるものだ。はじめは地下鉄に乗るのも大冒険 だから、あまり使わないようなことを考えてしまうようだ。もし、マドリッドに2日以上おられるのなら、 10回券を買われることをお勧めしておきたい。 上の写真でもおわかりのとおり、地下鉄はとても広々としていて乗りやすい。全部の路線がそうというわ けではないのだが、少なくともロンドンやパリの地下鉄よりはよいものを使っていると思った。 さて、2番線、9番線、10番線と乗り継いで、目的の駅に差し掛かったときに、驚くべきことが起こっ た。なんと、駅を電車が通り過ぎてしまったのである! 「おいおい!なんちゅうことをするねん!」 思わず叫びそうになるのをじっとこらえて、駅を見送った。 トレド行きの電車に乗るための時間がかなり迫っていたからでもある。 さっそく、次の駅で反対側に飛び乗って、駅に向かってみたが結果は同じ。過ぎて行く駅をむなしく見送 ることになった。どうも駅自体が工事中らしい。ガイドブックに載っていないのは仕方がないだろう。 さて、こうなると腹はきまった。バスで行くことにしたのである。 よく考えてみると、翌日借りているレンタカーで右側通行の道を運転するのはしばらくぶりだから、道を よくみておくことができるという意味でも、バスのほうが今後のためになる。 「きっと神様の思し召しに違いない!」 と、良いように解釈して、トレド行きのバスが出ている「南バスターミナル」への路線を探し始める。 今乗っている10番から6番環状線に乗り換えれば行けるようだ。乗り換えの駅で、路線図を眺めていた ら、スペイン語だからよくわからないけれど、さっきの駅が工事中らしく代替バスがでているようなこと が書かれていた。それにしても、国鉄の主要駅に乗り継ぐ駅を閉鎖するとは根性がある。 南バスターミナルには問題なく到着し、窓口でメモを使ってトレドと往復をしたいということを示したら、 往復券はないということだったのでそれを買う。4ユーロちょっと。列車より安いし、時間もなぜかバス の方が早くつくようだ。 コーラの自動販売機があったのでひとつ買おうとしたら、故障していて出てこない。後から韓国人らしい 若者一行がやってきて試してみるも駄目である。わたしはちょっと離れたところにある別の機械に行って コインを入れてみると、こっちはOK。こちらを見ていた若者一行もやってきて買っている。 チケットには出発時刻とバスの番号、それにわけのわからない22番という番号が書いてあった。バスの りばにいくと、マドリッドートレドと書いたバスが止まっている。しばらくして運転手がドアを開け、の りこんだのは良いが、乗客の様子をみるとなにやら番号を気にしている。よく見るといすのわかりにくい ところに座席番号が書いてあった。さっきの22番はそれと対応しているようなので、22番のところに 行って座りなおす。良い歳をしたおっさんが、そんなことをこそこそとやっているのも、はたから見れば 滑稽かもしれない。しかしこちとら大真面目である。 バスが発車してしばらくは、スペインの道体験という目的どおり、目を皿のようにして標識などを眺めて いたが、そのうち眠たくなって寝てしまった。1時間ほどのバスの旅はあっという間に終わって、目覚め た時にはトレドの町が近づいているようだった。 目覚めにコーラを一口すする。 別に思い入れがあってきたわけではない町なので、バスターミナルから外に出たときは、どこへ行ってよ いものやらまったくわからなかった。ただ、城壁にかこまれた丘の上の町と聞いていたので、丘がある方 を目指して歩く。 丘から見下ろすと、下にもたしかに古そうな町並みが広がっている。城壁のなかに入ってしばらく歩くと、 現地人と勘違いされたか、注意深そうな英語で「どこそこ?」なんて場所の名前らしいことを聞かれた。 「ワカラナイ。ワタチ、ゲンチノヒトナイアル。」 と、答えると、彼らは向きを変えて坂の上を目指して歩いていったので、もしかしたらおもしろそうなも のがそっちになるのかと思ってついてゆく。 丘の上で彼らと別れてより中心部と思われるほうに行ってみると、右の写真のように趣たっぷりの町がそ こにはあった。わたしが持っていった小さなガイドブックに、唯一書かれている大聖堂もそこでみつける ことができ、となりにある店でしばらくならんで入場券を買う。学生証を見せると安くしてくれたようで はあるが、それでも4.5ユーロとられる。 この聖堂は、なかが撮影禁止なのでここではお見せできないのが残念だ。内部は非常に美しい装飾で彩ら れており、この国にカトリックが強く根付いていることの一端を知ることができる。 内部には絵画の展示室も設けられており、いくつかはグレコという銘が打たれていた。また、今のものと はちがった古い聖歌の楽譜も展示してあり、その譜面にちりばめられたきれいな装飾にも興味がもてた。 わずか1時間ちょっとの滞在ではあったが、知人の勧めを信じて来たのは正解だったと思う。 聖堂を出て、来た道を戻る。古い町並みを出ると、城壁へと下に下る坂道が現れる。 12時半くらいにトレドについて、14時30分のバスにのって買える。 列車で行くことに決めたときには、ちょっと心配していたチケットも、当たり前といえば当たり前である が難なく手に入れ、今度は座る場所も間違えずにバスに乗り込んだ。 ただ帰りは、行きと違ってマドリッド方面への乗り合いバスと化するようで、とちゅうのラ・マンチャ等 の町に止まっては、マドリッド行きの乗客を乗せていくため、行きよりかなり時間がかかる。 「ラ・マンチャの男」が乗って来た...などと、洒落ているような余裕が今日はない。 明日は、9時に超特急が出発するので時間がない。 わたしはプラド美術館でどうしても見ておきたい絵があったのである。 それは、ピカソでもダリでもなく、ベラスケスという王宮画家が描いたマルガリータ王女の絵だ。 閉館時間には十分間に合うはずではあるが、急ぎたい気分である。 バスはわたしの心配などおかまいなしに人を入れ替えながら進み、16時をちょっとまわったくらいに、 朝出発した南バスターミナルに戻ってきた。 早速地下鉄にのって、ホテルの前の駅に急ぎ、ホテルで「ドス・ウノ・ウノ・ポルファボール」と言って 211のキーをもらう。2と1だけなら、スペイン語も覚えやすい。フロントは朝とは別の人だったが、 やはり笑顔がいつもと違う。自分の母語を覚えようとしてくれる人に、悪い思いを抱くはずがないと思う。 トレドに持っていった、ガイドブックなどが入ったリュックを置いて、プラド美術館へと向かう。 置いてきたガイドブックによると、土曜の14時30分以降は無料というはずだった。今回のトレドの旅 も、実はそれにあわせて行ったのでもある。しかし、実際は学生証をみせても、「25歳以下ですか?」 と聞かれ「上です」と答えると、正規料金の6ユーロをとられてしまった。どうもここでは25歳以下の 学生が学生とされるらしい。ここに来てついに学生の身分が通じなかった! さて、ベラスケスである。 なぜ、その絵が見たいか? それは、モーリス・ラヴェルというわたしが極めて敬愛する作曲家が残した「亡き王女のためのパヴァー ヌ」という曲の王女が、ベラスケスが何枚か描いたマルガリータ王女とされているためであり、そういう 逸話の中に登場する一枚の絵が、目に焼きついて離れなかったからである。ちなみにマルガリータ王女は その後、14歳で政略結婚的にウイーン王室に嫁ぎ、22歳の若さで産後の肥立ちが悪く他界している。 ラヴェルが実際にその曲を着想するにいたった絵が、どれであるかはわかっていないらしい。(一説には、 その曲の誕生談自体が作り話であるという話もある)しかし、その王女を描いた絵の中でもっとも有名な 絵が、プラド美術館に展示さえているのである。 わたしはルーブルのときに書いたのだが、美術館で写真を撮るのはあまり好きではない。まったく絵の趣 もなにも写真には写らないからである。しかし、この絵の場合は、どうしても写真にとりたくなった。 ブレているのをご容赦いただきたいが、展示室の光加減がうまく撮影できているようなのでそのまま載せ ることにする。この絵のコピーや写真などをみると、もっと暗い絵のように思っていたのだが、実に綺麗 で画廊にやってきた王女の可憐さが見事にあらわされている。 ナショナルギャラリーで驚いて以来、絵はやはり実物をみないと意味がないと痛感してきた。昨日のゲル ニカといい、今日のこのマルガリータ王女(Las Meninas)といい、いつまでもいつまでも眺めていたいよ うな感激を覚える。人が良いというから良いのかもしれない。わたしにそんな審美眼があるとは思えない。 しかし、この絵については、まわりの絵を圧倒する何かがあった。 ゴヤなどの絵を見てはまたここに戻ってきて鑑賞した。見ているだけで微笑みが生まれる。 こんな気分になったのは、ナショナルギャラリーでラファエロの「マドンナ・オブ・ザ・ピンクス」を見 て以来のことだ。あらゆる悪い気分が吹き飛んでいくような気がした。 マドリッドは遠いが、いつかまた戻ってきて見たい絵となったようである。 実は、このマルガリータ王女以外にも収穫があった。それはラファエロの絵がたくさん展示されていた事 だ。ナショナルギャラリーの一件以来、大きな美術館に行くと中世の展示に向かってラファエロを探すよ うになった。今回は入り口を入ってすぐが中世にあたっていたので、迷わず目にすることができ、とても 満足である。いつか本場イタリアにいって、もっと多くのラファエロを見てみたいと改めて思う。 たくさんの名残惜しい気分を抱きながらプラド美術館を後にした。 となりには王立植物園がある。ここは学生料金で入ることができた。花のシーズンではないので、色とり どりとはいかないが、都会でたくさんの木々に触れることができるのはすばらしいことだと思う。 植物園では、セミの声を聞いた。 バルセロナにはセミがいないと、元同僚夫妻と話をしていたこともあり、うるさいセミの声がなにか珍し くまた、懐かしいもののように聞こえる。 もう夜が近い。 さすがに腹が減ったので、「予定どおり」ちかくのマクドナルドにいって、しかしスペイン独特らしい、 「ロイヤルなんちゃら」というハンバーガーを頼んで食べる。 明日くらいは、バル(BAR)で飯を食うこともやってみようかと思った。 (今日は、ここまでにします。この後ホテルに帰って、一日目のスペイン紀行を書き上げ、それをアップ した直後にディスク障害が発生して、コンピューターが使用不能になりました...)


2005年8月14日から8月15日まで


コンピュータの画面に、「OS not found」などという画面が突然出てきた。 とりあえずコンピュータ関係で食べてきた者として旅先でのこの画面は、その後の作業がまったくできな いことを意味することを覚悟しなさいと言ってることくらいはわかる。とりあえず、バイオスの設定画面 などいろいろチェックして、ディスクを認識しなくなっていることは確認したものの、何の手当てができ るわけでもない。しょうがないので、朝まで電源を切って放置し様子を見ることにする。 画面は翌朝も同じままであった。家においてきた、動作が不安定になったので交換したディスクを使えば とりあえずの復旧ができる。しかし、最近の状態に戻すためのバックアップをした日付が気になる。前々 日に転送したばかりのデジカメの映像は、よほどのことがない限り復活しないだろう。 そんなことを考えてかなり憂鬱になったが、過ぎてしまったことはしょうがない。 話を旅に戻すことにしよう。 前回の話でスペイン語の片言が覚えられないというのを書いた。ひとつ忘れていた単語がある。 「ありがとう」である。スペイン語では「グラシアス。」 人として感謝の言葉は一番大事なものだと思う。フランス語で「メルシー」というのはよく知られた話な ので、わざわざ覚えなくても良かった。今回は、そうはいかない。「グラシアス。」これがまたなかなか 覚えられないのである。プラド美術館の売店で、ベラスケスの絵の小さなポスターを買ったとき、これが なかなか出てこず、3秒ほど立ち止まって天を見上げ、やおら振り向いて「ぐらしあす」と言う、なんて こともあったりする。学生をやっているというのが信じられない、ていたらくだ。 結局この言葉は、ちょっと言えるようになったころにスペインを離れることになってしまった。 さて、マドリッドを立つのが9時の電車なので、それまでにもしかしたら朝の名所観光ができるかいなと 思い、早起きをして町にでてみることにした。すると、なんと7時の町が下のような按配である。 暗いのは、イギリスより西に位置する国なのに、グリニッジ標準時より一時間早い、ヨーロッパ標準時を 使っているから、イギリスや他の国の感覚なら6時よりまだ早い時刻であるということを考えれば、わか らないでもない。しかし、人がほとんどおらず、いても世を明かした酔っ払いみたいな人か、早でで店を オープンさせようとしているような人しかいない。人通りがほとんど無い7時の首都である。 しばらく歩いてみたものの、ちょっと遠出は怖くなったので引き返して朝食を食べることにした。 マドリッドは、最後の日にまたくるので、そのときにまたうろうろできるだろう。 朝食をまた腹いっぱい食べて、チェックアウトを済ませ、8時をまわっても、まだ早朝のようなマドリッ ド・アトーチャ駅にやってきた。荷物検査を済まし、超特急AVEの止まっているホームへと向かう。 AVEはちょっと、日本の新幹線のカモノハシみたいに見える700系に感じが似ている。しかし、列車 の前後に気動車が付いているタイプであり、日本のように客車両に気動車が分散しているタイプではない。 しかし、営業速度で300km/時の区間があるらしいから、世界の超特急のひとつであることは間違い ない。路線は、マドリッドとセビリアの間というちょっと変わった区間で運行している。もし、日本なら、 東京ー大阪といった按配で、第一、第二の都市を結ぶようにするだろうし、事実昭和39年の新幹線開業 時はそうなっていた。しかし、スペインでは、バルセロナとマドリッドは、いまでも結んでいないのであ る。どうしてこの路線にしたのか、政治的問題があるのやらどうやら、さっぱりわからない。 旅に戻ろう。 ガイドブックによると、セビリアあたりは季節によって一面のひまわり畑になるそうである。そういえば、 「ひまわり」なんて映画でそんな情景を見たことがあるような気がするので、もしかすると、それが見ら れるかなと楽しみにしていたのだが、6月7月と記されていたガイドの情報は、めずらしく?正確であり 黄色い花を見ることは無かった。これから車を借りて走る先も、おそらく期待はできまい。 テレビに映し出されている映画をみたり、うとうとしたりしていると、さすが超特急らしくあっという間 にセビリア・サンフスタ駅に到着した。 さっそくレンタカー会社を探す。駅の構内に並んでいるレンタカー会社はメジャーなものばかりだったの で、一端駅を出て探すことになる。プラットホームでは感じなかった灼熱の熱さが、駅を出たとたんに飛 んできた。さすがにうわさに聞く大陸性の暑さである。この暑さの中、長い距離を探すのは大変だなと思 いつつ、あらかじめプリントアウトしていた地図が示しているだろう方向に行って見ると、なんのことは ない、駅の駐車場の中にすぐその会社を見つけることができた。 予約の番号を示し、手続きを済ませる。子猫の鳴き声がするので、聞いてみると。まだ生まれたての猫が カウンターの下でうろうろしていた。「日本に持って帰ってよ」などといわれる。猫はほしいが、残念な がら帰る先はイギリスである。 車は、シトロエンC4だった。なかなか良い車だ。「今日一日、よろしゅう頼みます」と車に語りかける。 車というのは生き物であると思って間違いない。想いをもって扱ってやると、きっとそれに応えてくれる。 キーをまわし、一番初めにやること。それはエアコンのスイッチだったが、当たり前のように最強モード ですでにセットされていた。車の中はあっというまに快適になる。 時間もあまりないので、早速南の端を目指して運転を始めたものの、これがなかなか難しい。スペインの 街は基本的に一方通行でできている上に、大きな道は幹線と側道に分かれていて、どこをどう曲がれば良 いのかすらわかりにくいのである。カディスという町をまず目指すのと、どの番号の道を行けばよいのか などは知っているので、あとはそれに乗ればよいというのがなかなかできないのだ。 うろうろしているうちに、なんとカディスと正反対の方向へといく、同じ路線に乗ってしまった。しかし、 有る意味これはうまく行きそうだ。出口を見つけて、反対側に乗りなおせばよいのである。 そのとおりにやって、見事南に向けて快調に走り始めることができた。 途中の休憩所で、飲み物やガムなどを買いこみ。また走っていると、なんと料金所である。先述の知人に よると、南のほうはわからないが北のほうには普通にあるとのことだった。南のほうにもあるのだ。 このあとの帰りがけの道でも、たくさんの料金所を通った。料金は区間によってまちまちである。しかし、 が、決して安くはなく、5ユーロなりを取られるので、旅行される場合は計画に入れて置かれるとよい。 高速道をおりて、アルヘシラスという町を目指す。そのあたりが、ジブラルタル海峡の要所のはずだ。 上の右の写真をみていただきたい。ひとつの車線に2列の車が走っている。これには最初驚いた。対向2 車線の道をゆうゆうと走っていたら、後ろからパッシングはされるわ、クラクションは鳴らされるわで、 譲り合いの精神のつもりで右によけたら、どうやら、そのように走るのが当たり前のようだった。 他の車も、遅くてよい人はそのようにしている。まったく、郷に入りてはなんとやらというが、こういう ローカルルール??にはかなわない。ただ写真を良く見ると、中央線よりも左側にパイロンのようなもの が置いてあるから、あの路線だけは3車線利用していたのかもしれない。たしかに、一部区間で大変な渋 滞をしていたから、その解消のためにやっているのかもしれない。 時間を気にしながらの旅である。レンタカーは1日借りているので、返すのは明日の借りた時間でよいの だが、車にのって今日泊まるホテルを探すのがいやなので、できれば今日中に返しておきたいのだ。営業 時間である午後10時までにセビリアに帰りたいのである。地図によると、大体全部で500km。借り た時間が12時。つまり、10時間で行ってこれるかどうかという話である。もちろん、いけないと判断 しても、契約上なんら問題が出る話ではなく、ただセビリアの運転しにくい町を車でうろうろしなければ ならないというだけである。 渋滞を抜けるとすばらしい光景が広がった。 一面のひまわり畑は見ることができなかったが、その代わりに目の前に現れたのは、一面の風力発電機畑 であった。 これは本当に凄い。 わたしは、オランダのロッテルダムあたりや、サンフランシスコの郊外でも、風力発電機がたくさん並ん でいるのを見かけたが、これはそれらの足元にも及ばない規模である。なにせ、一面そこらじゅうに風車 が回っているのである。 ちょっと残念なのは、この風景の写真が、あとでもう一度ちゃんと写真を撮ろうと考えつつ、車から適当 に撮ったものだけになってしまったことだ。帰り、時間が思いのほかできたので、別のルートをとること にしたからである。 また苦言を書く。 日本でもこういった風力発電の施設をたくさん作ればよいと思う。風の強いところなど、探せばいくらで もあるのではないか。前に読んだ「風力発電に反対する理由」のなかに、「風景を損なう」などというも のがあったが、そういう意見の人はこの光景を見られることをお勧めする。現代人がどうしても使わなけ ればならない電気というものを、今後如何にして確保してゆくかの立派な解答のひとつがここにはある。 風力発電の林を抜けると、スペインのいやヨーロッパの南の端の町、タリファにやってきた。もともとは、 アルへシラスを目指していたが、タリファにはモロッコへの高速艇が出ているという看板をみて、考えを かえたのである。 タリファの町のなかで、車を止める場所を探し、結局モロッコ行きの船がでる船着場の近くに1ユーロで 車を止める。終日150円なら全然かまわない。 モロッコ行きの乗船所に行くと、往復で54ユーロという。 しかも、今目の前に留まっている船は、1時間も遅れてたまたますぐに乗れる状態らしい。 高速艇は双胴でとてもかっこよい船だった。そういう意味でも乗って見たい... しかし、ここで遅れているということは、帰ってくる船も遅れるかもしれない。 そのときはセルビアの町で一苦労することになる。 わたしは、悩みに悩んだ挙句に、このアフリカ行きをあきらめた。 そして、徒歩でジブラルタル海峡の見える海岸線へと向かったのである。 下の大きな地図のなかで、ESPANAとあるスペインの南にちょっと突き出したところに居るわけだ。 アフリカが見える。モロッコの山々である。 アフリカを踏みしめることはできなかったが、ついにアフリカを目にした瞬間だ! しかし、この決断のせいといってはなんだが、アクシデントが起こってしまう。 このタリファの海岸、とんでもない暴風が吹いているのである。さすがに風力発電機が林立しているだ けのことはある。上の写真を撮影しているときも、顔には砂浜から飛んできた砂がぱちぱちとあたりつ づけていた。道の上で撮影していたのだが、ふと見ると車がゆっくりと近づいてくる。ちょっとあわて て、避けようと体を動かしたとき、カナダ時代から持っている一眼のカメラを道に落としてしまった。 レンズのキャップが壊れて破片が飛んでいる。車の運転手が同情するような表情をしているので、こち らも両手の平を上にむけて「あ〜〜あ」といった表情をしておいた。 破片をかき集めてから、カメラのスイッチを入れてみたが、動作がおかしい。ファインダーを覗いても ピンボケのままである。ついに本体も壊れたかと、悲しくなりつつも叩いたりこねたりしていたら、突 然レンズが動き始め、正常の位置に戻った。レンズも割れていないようであるし、これならなんとか撮 影もできそうだ。(後日それ以降の画像も現像してみたが、なんとも無かった。これも感謝である。) 酷い風のなか、アフリカもジブラルタル海峡もさんざん見たので、出発することにした。 予定よりもかなり早く着いたので、もと来た道を戻らず、マラーガという町経由でセビリアに帰ること にする。この道にも一杯の風力発電機がある。 ひたすら走って、セビリアにはまだ日のあるうちに帰ってこれた。ややこしい道を行き来して、やっと もと来た駅前のレンタカー屋にたどり着く。夜だったら本当に怖かったことだろう。 それでも、10時閉店のところ、キーを返したのは9時だった。総走行距離570kmである。 さて、プリントアウトしておいた地図を頼りに、近いはずのホテルへと歩き始めたが、これがさっぱり 見つからない。どう考えても、あるはずの場所にホテルがないのである。今回の旅行は、インターネッ トでホテルを探して事前に予約してきている。そして全て4ツ星ホテルなのである。贅沢のようだが、 割引料金を比較すると、安いホテルとあまりかわらなくなるのだ。安いホテルとの違いは、やはり安心 できるということであろう。 スペインについた頃、地下鉄にのったり群集を見たりするたびに、元同僚に「この中の何人が泥棒なん ですかね?」と語りかけたものだ。スペインは観光客相手の泥棒が多いと聞いていたからである。 もはや暮れてしまった10時ごろの町を、ホテルを探して歩き回った。まさか4ツ星のホテルが消えて なくなるわけがない。道行く人に聞こうかと考えたが、どうも悪漢に思えて仕方が無い。 こういうときの基本は、駅などに引き返してしかるべき人に聞くことだ。駅に近いホテルを取ったつも りでいたから、それが確実であろう。 ところが、駅に向かって歩いていると、そのホテルの方向を示す標識を見つけた。駅に帰るまえに、ひ とまずその標識を頼りに歩いてみることにする。持っていた地図とはまったく違う方向である。 しかししばらく歩いて、出てきた大通りを眺めていると、道の途中に自分が予約したホテルが見えた。 やっと落ち着くことができる。 しかし、それにしても、車で夜に帰ってきて、これをやっていたら絶望していたことだろう。歩きだっ たからこそ、なんとかなった。モロッコ行きをあきらめたのは大正解だったと、ここに来て初めて納得 したのである。 さて、翌日はセビリア散策後に、また超特急でマドリッドに帰り、飛行機にのって英国に帰る。 朝を迎えこの日は聖マリア昇天祭なるお休みの日だ。朝の道は下のようにまったく人を見かけない。 右の写真は元同僚に頼まれた話、「セビリアのハトは白いというのは本当か?」という話の証拠写真。 まさに、白いハトが一杯である。 ここはアラビアではないか?と思えるような建物が並ぶ。散水車が水をまいている。夏の風景だ。 大聖堂にだけは行っておこうと思って出かけれ見ると、あたりが閑散としていた。この日はマリア様 の日だから、入れないのかなとおもってうろうろしてみると、なんと中でミサが行われており大勢の 人が参列している。そして驚いたことに、問題なく中に入ることができた。一緒にミサに参加する。 テレビ中継しているらしく、大きな聖堂の中でも祭壇が見えない席の前にはテレビが置かれて様子が わかるようになっている。わたしは、立ってミサの様子を見学していた。お祈りもしながらである。 不思議だったのは、オルガンで演奏された間奏曲が、ワーグナーの「タンホイザー序曲」だったこと。 ちょっとキリスト教の礼拝には関係の無い曲のように思う。 特別のミサは、神輿に乗ったマリア像が退場していって終わったように思う。 キリスト教もいろいろだなぁと感じる。わたしが勉強したことのある、プロテスタントの教えでは、 マリア様はただイエス様のお母さんである。カトリックにおいては、ノートルダムというのがマリア さまのことを表すように、マリア信仰とよばれるものがある。ラファエロが描くマリア様もそういう 信仰が生み出したものであるから、その絵を眺めて感激しているわたしも感謝せねばなるまい。 大聖堂を出て、アルカザールと呼ばれる「歩いてはいけない」かのような名前の建物のアーチ型の門 から、聖堂の塔を眺めると、とても写真栄えすると思ったので撮ってみた。 あとで、この角度からの眺めがTシャツの柄とかになっているのをみて、さもありなんと思う。 まるで、熱帯のようなというか、連日40度近いというのだからまさに熱帯の木々が並ぶ公園を抜け、 ホテルに一度帰ってくる。12時チェックアウトなので、それまで一休みしてから駅に向かう。 駅前では、右に移っているBARで昼ごはんを食べた。これは私にとってはとても珍しいことである。 元同僚に言われていたとおり、BARに並んでいる食べ物を指差し、わかってもらえると、ビールを 頼んだ。乾パンのようなものと一緒に、頼んだ食べ物がさらに盛られて出てくる。セビリア名物の子 豚の丸焼きからとった肉が入っていると確信する。とても美味かったので、その子豚らしきものの横 にあった野菜の酢づけのようなものも頼んで、またビールを頼む。ずっと立ち食いである。 大満足して、辞書を取り出し勘定を示す言葉をいうと、簡単に理解してもらえた。しかし、いくらと いう額がさっぱりわからないから10ユーロ札を出すと、おつりが一杯返ってきた。5ユーロちょっ とだったように思う。おなかも一杯になったし、これは面白い体験だった。 これからは、外国にいっても怖がらずに飯を食うとしようか... セビリア・サンフスタ駅から、また超特急AVEにのって、マドリッドに戻ることにする。 列車に乗り込むと、またしても自分の席がない。「またしても」と書くのは、散々イギリスで経験したか らであり、スペインでは初めてなのであるが。 人のよさそうな初老の夫婦の夫人の方が、窓側のわたしの席に座っている。わたしは、チケットを見せて、 そこが自分の席であると言うと、夫婦はいろいろ確認してから、スペイン語?と身振り手振りで説明する に、どうも彼らの席は真ん中の通路を挟んでいるらしい。なにやら強引に「ふたりだから、こっちに座り たい」みたいなことを言っているように思う。どうも最近こういうことが多い。先日、久しぶりにデボン に行った時も、自分の席に行ってみると誰かが座っている。4人仲間だから、こっちに座らせてくれと言 う。彼らの席はといえば、進行方向と反対側の狭い席だ。馬鹿馬鹿しい申し出だが、こちとらはどうせし ばらくするとクビを固定する便利な風船を膨らまして寝てしまうのであるから、まあイイやと代わってあ げた。わたしが先に降りたのだが、彼らからはなんの言葉も無かったが。 どうしたものか、人種差別とかどうとか言う話ではなく、たまたま私の席を占拠する奴がいるのである。 あらかじめそこに座るのが、写真でも貼ってあって東洋人とでも示されているのなら話は別だ。しかし、 そういった情報は何も無いのであるから、こういう流れをどう説明してよいかまったくわからない。 くだんの夫婦は、途中の駅でおりたので、わたしは自分の席に座りなおしてくつろぐことができた。 マドリッドは、もう何か勝手知ったる町といった感じで、地下鉄にのって名所めぐりをすることにする。 下の左が、マヨール広場、右が王宮である。この王宮は白く輝いてとても綺麗だった。 王宮の前にある、アルムデーナ大聖堂。青い色が美しく映える。右は、王宮を後ろから見たものである。 マドリッドらしいというような通りを抜けて歩くと、ドンキホーテとセルバンテスがいるスペイン広場 がある。観光客が、ドンキホーテとサンチョの像の横に代わる代わる立って写真を撮っている。 日本では、ドン・キホーテを、ドンキ・ホーテだと思っている人が多くなっていると聞いた。たしかに、 関東を中心に展開している雑貨を扱う店、「ドンキホーテ」の店で流れている歌は、「ドンドンドン、 ドンキー、ドンキー、ホーテ」なんて言っているから、そういうことも起こるのだろう。 さぁ、マドリッドでも見るものは見たつもりだ。空港に向かおう。 地下鉄のアナウンスを聞いていると、男の声と女の声の掛け合いで「次の駅はどこそこです」といって いる。そこまでは、バルセロナの元同僚から聞いていた。しかし、どこかで聞いたことのあるような言 葉を言っているように思っていた。駅のことを「エスタシオン」というのも元同僚から聞いていたから、 問題は「次の」である。「プロキシマ、エスタシオン」と聞こえる。 「プロキシマってなんやったかな?」 しばらく考えてハタと思い立った。プロキシマとは、太陽系に最も近い恒星の名前だ。もしかしたら、 その名前も「次の星」という意味でついたのではないかと、本当か嘘かわからない想像をして楽しむ。 (ちなみに本当はラテン語で「もっとも近い」という意味だそうで、良い線を行っていたと思います。) ひょんなことから行くことになったスペイン。 実に楽しい体験ができた。 サグラダ・ファミリアを見るという夢もかなった。アフリカも見た。一人で昼飯も食べた! 最近忘れつつあった、「オポチュニティー(機会)を大切に」というモットーは、やはり大事にせね ばならないなと痛感する。 今わたしは、ドン・キホーテのような人生を送っているようにも思う。 しかしこの先、やっぱりドン・キホーテのような結末では面白くない。 彼らの銅像を見ながら、ちょっとばかり未来のことも考えさせられた。 ただし、そんなことを言いながら、旅の楽しさも再確認してしまった。 近いうちにまたどこかへ行きたくなった。 まだ、人生の結末を気にするには早すぎるかもしれない... スペイン、元同僚夫妻、そしてドン・キホーテにも感謝しつつ、筆をおかせていただくことにする。
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